【トンデモ】世界最古の日本文明スゴイ!ちなみに日本文明論の誤謬を糺す(H・S・ストークス『日本だけが「悪の中華思想」を撥ね退けた』悟空出版, 2018)

はじめに

愛国系出版社「悟空出版」は、日本スゴイ中韓ダメ本を大量生産しています。どれも大同小異でコンテンツの重複が甚だしいのですが、今回はヘンリー・S・ストークス(翻訳・構成:藤田裕行)『日本だけが「悪の中華思想」を撥ね退けた』(悟空出版, 2018)に出てくる世界最古の日本文明スゴイ論を紹介したいと思います。

ヘンリー・S・ストークス氏と言えば、神武天皇の実在を信じるのに、アーサー王の実在を信じない不思議なイギリス人なのですが、本書においても不自然なまでに日本ヨイショをしてくれています。

【トンデモ】『大東亜戦争は日本が勝った』H・S・ストークス|ハート出版, 2017

2018年10月30日

【トンデモ】『日本が果たした人類史に輝く大革命:「白人の惑星」から「人種平等の惑星」へ』H・S・ストークス×植田剛彦(自由社, 2017)

2018年10月18日

とりあえずタイトル詐欺

一先ず目次をあげておきます。

はじめに 日本だけが「中華思想」に飲み込まれなかった
序章 比類なき日本文明に誇りを
第一章 太古より文明を保持し続けた日本
第二章 仮想現実でしかない「中国」
第三章 「朝鮮半島」が日本にもたらす脅威
第四章 アジアに迫る白人列強の脅威
第五章 マッカーサーが気づいた「北の脅威」
第六章 日本文明の精華
終章 米中覇権戦争の最中、日本の使命は何か
おわりに 安倍首相に期待したい「憲法改正」の実現

一目見てわかるように『日本だけが「悪の中華思想」を撥ね退けた』に一致するコンテンツは、はじめに第二章しかありません。第四章に至っては、日本だけが白人列強を撥ね退けた、という内容です。むしろ本書のコンテンツ比率からすれば、序章第二章第六章などから明らかなように「日本文明」という概念を持ち出して日本スゴイをしてくれる内容の本です。

しかも最後章には「安倍首相に期待したい「憲法改正」の実現」というよく解らないチャプターまで入っています。イギリス人のストークス氏が、日本国憲法の改正を安倍首相に期待するとか、本当に意味不明でしかありません。

このように本書は、明らかにタイトルと内容が不一致です。劣化保守本はチャプターも内容も結論も支離滅裂な場合が多いのですが、本書はまさにその典型でしょう。ケント・ギルバート氏の『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』が大ヒットしたので、それにあやかってこのタイトルを付けたのでしょうか…。

世界最古の日本文明スゴイ!

中身を検討していきます。まず本書の序盤でストークス氏は、「日本文明」なる歴史教科書には絶対に載っていない、かつ近年の保守が好む概念を持ち出して、日本をヨイショしてくれます。

この「日本文明」とは、政治学者サミュエル・P・ハンティントン『文明の衝突』(原著1996)のなかで説かれた概念として知られます。まるで日本が四大文明に比する独自の文明を持っているかのような語のため、一部の保守論客が好んでこれを引用します。ストーク氏も、次のように述べます。

ハンチントン教授は日本文明を世界の「八大文明のひとつ」として位置づけた。日本文明が「日本一国のみで成立する、孤立した文明」であると、定義したのである。
日本が世界の他のどの文明とも、まったく異なった独自の文明を築いてきたというのは、まさに卓見だった。それまで世界の学界では、日本を中華文化圏、あるいは儒教文化圏の一部として位置づけてきた。それが長いあいだ世界の常識となっていて、誰も疑うことがなかった。そんな中、初めて日本を独立した八大文明のひとつとして認めたハンチントン教授の洞察力に、敬意を表したい。

 H・S・ストークス『日本だけが「悪の中華思想」を撥ね退けた』悟空出版, 2018, p. 30

このあとストークス氏は、一万五千年前の縄文時代の遺跡や、三万年前の磨製石器などを取りあげながら、日本文明が四大文明に比して世界最古であると主張し始めます。さらに、三内丸山遺跡の年代が5500年前から4500年前ごろと知って、次のように感嘆の声をあげます。

このことは、日本文明の起源が世界史的に見て、とんでもないものであることを、意味している。
ユダヤ教にとって唯一の聖書であり、キリスト教にとっての旧約聖書に描かれた歴史は、およそ六千年と言われる。……ユダヤ教によれば、この宇宙が誕生してから五千六百七十年しか経っていないのだ。
ところが三内丸山遺跡は、聖書時代の始まりのころに、五階建てマンションと同じ高さの建物を建築していた。まさに「文明」である。古代日本文明が立てた「バベルの塔」ならぬ、「アオモリの塔」なのだ。遺跡という物的証拠が証明している。

 H・S・ストークス『日本だけが「悪の中華思想」を撥ね退けた』悟空出版, 2018, p. 30

一読して唖然です。つまり旧約聖書の創世記に基づく年代論からすれば、天地創造まもなくこの三内丸山遺跡が建てられていたので、古代日本文明スゴイというのです…。聖書に描かれた物語を現実世界の(しかも日本の)歴史に当てはめることに、何の意味があるのでしょうか。じゃあ三内丸山遺跡はノアの洪水で滅びたのかとツッコミを入れたくなるところです。

「日本文明」の誤解を糺す

このように聖書の「神話」と考古学的な「歴史」の区別ができていないストークス氏の見解には驚嘆を禁じ得ないばかりか、その氏が語る「日本文明」がいかにテキトーなものなのかを端的に示しています。最後にこの「日本文明」について、近年、保守論壇を中心に誤解が多く見られるのでこれを糺しておきます。

近年保守論客が盛んに持ち出す「日本文明」論は、①古代日本が中国に朝貢していたという事実や、②日本文化が中国から多大な影響を受けている事実を認めたくないコンプレックスから成り立っています。したがって、「日本文明」なる文明は、中華文明とは別に成立し、かつ起源も古い点が強調されます。

ところでこの「日本文明」が「中華文明」とは別に存在する点を主張するにあたり、サミュエル・P・ハンティントン『文明の衝突』(原著1996)がしばしば保守本に引用されることは先ほども述べました。しかし原著を読めばすぐに解りますが、保守論壇が主張するような「日本文明」は、ここには一切説かれていません。論より証拠、「日本文明」の起源は次のように説明されます。

Japanese. Some scholars combine Japanese and Chinese culture under the heading of a single Far Eastern civilization. Most, however, do not and instead recognize Japan as a distinct civilization which was the offspring of Chinese civilization, emerging during the period between A.D. 100 and 400.(Samuel Phillips Huntington, The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order, Simon & Schuster, 1996, p. 45)
日本文明。一部の学者は日本の文化と中国の文化を極東文明という見出しでひとくくりにしている。だが、ほとんどの学者はそうせずに、日本を固有の文明として認識し、中国文明から派生して西暦一〇〇年ないし四〇〇年の時期にあらわれらたと見ている。(ハンチントン, 訳:鈴木主税『文明の衝突(上)』集英社, 2017, p. 67)

ハンティントン氏は日本文明は中国文明から派生して後100年~後400年ごろに現れたと理解しています。この事実は、文明史を説明するためにハンティントン氏が引用している「文明系譜図」からも確認できます。


Samuel Phillips Huntington, The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order, Simon & Schuster, 1996, p.49

このように、ハンティントン氏は日本文明を中華文明の亜種と考えていたことは間違いないでしょう。したがって、ハンティントン氏の日本文明論をヨイショしておきながら、日本には中国文明より古い文明があったと主張することは、荒唐無稽であると言わざるを得ません。



4 件のコメント

  • 三内丸山遺跡の年代が誤表記で大変なことになっています。5500年前から4500年前とするところが、5500万年前こら4500万年前になっています。まだ人類誕生してないです。

  • 日本は既に漢民族に乗っ取られていた事が証明されつつある:

    サイエンスZERO 動画
    日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
    https://www.dailymotion.com/video/x6zvxyz

    弥生人は韓国人に近い遺伝子だと思われてたが今回の調査で違うことがわかった

    大がかりなDNA解析による新情報では弥生人の初期は縄文人に近い遺伝子だったが集団の戦いなどで弥生人は時代が進むにつれて韓国人のDNAに近づいて
    現代日本人はほとんど韓国人のDNAと一緒になった

    これ旧日本人が韓国人に大虐殺された後に中出しレイプされて生まれたのが俺たち現代日本人ってことになるぞ

    ナレーション(弥生人の核DNA分析から予想された現代日本人の位置は ここ。弥生人同士がまじわって 現代日本人が成立したと考えられるからです。ところが…。)

    篠田謙一:実はですね 現代日本人はもう既に この辺りだということが分かったんですね。つまり 弥生人って 混血していけば恐らく 混血する相手は
    この縄文人になりますから当然 現代日本人の位置っていうのはこちらに ずれてくるはずなんですよね。ところが そうならなくてこっちに来てしまったということで
    ちょっと 考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり こっち(韓国人)に引っ張る 何かがなければいけないということになるんですね。

    小島瑠璃子:てことは 韓国とか あとは大陸の方と多くまじわりながら人口を増やしてったのが私たちってことですか?

    篠田謙一:そういうことになると思うんです。

    小島瑠璃子:え~!

    弥生人のDNA分析から意外な事実が判明

    遺伝子学や考古学、言語学などさまざまな研究分野の専門家がチームを結成。
    40体に及ぶ弥生人の人骨をDNA分析をした。
    謎に包まれてきた弥生人を最新科学で解き明かす!

    弥生人のDNA分析

    鳥取県の弥生遺跡で発掘された人骨のDNAは、9割が渡来人だった。縄文人のDNAは、1割と少なかった。渡来人が縄文人に入れ替わっていた。

    弥生人はどこにルーツをもつ、どんな集団だったのか?

    弥生人のDNAから渡来人は中国大陸の各地から渡来してきたことがわかった。

    渡来は2世紀から始まった。渡来人は、縄文人にはない鉄製の器具、ガラスの装飾品を持って来た。

    縄文人からどのようにして、現代日本人になったのか?

    現代日本人のDNAは、弥生人よりも中国・韓国人に近い。弥生時代のあと、古墳時代も中国からの流入が続いたためと思われる。

    弥生人のDNAから、縄文人と交わっていた形跡がある。
    https://phity.net/japanese-yayoi-dna-chinese

    ▲△▽▼

    2018.09.20
    約2千年前の弥生時代、なぜ凄惨に殺された人骨が大量発掘…国と課税と戦争の誕生
    https://biz-journal.jp/2018/09/post_24828.html

     鳥取市の青谷上寺地遺跡で見つかった2~3世紀(弥生時代後期)の人骨のDNAを最新技術で分析する調査を、国立科学博物館や国立歴史民俗博物館、鳥取県埋蔵文化財センターなどが始めた。

    「産経WEST」の報道によれば、遺跡中心部の溝からは、老若男女の人骨が少なくとも109体分、散乱した状態で出土。鋭い武器で切られたり刺されたりした殺傷痕が残るものもあった。戦闘など凄惨な行為があったと考えられるが、その背景は明らかになっていない。

     人間はなぜ戦争をするのか。古くから多くの思想家や研究者が答えを探してきた問いだ。日本で戦争が始まったとされる弥生時代の歴史は、その難問に対するヒントを与えてくれる。

     通説では紀元前4世紀ごろに九州北部で始まったとされる弥生時代といえば、水稲農耕が始まった時代として知られる。縄文時代晩期に渡来人によって北九州に伝えられた水稲技術が、まず西日本、次いで東日本にも広まった。

     同じ時期に日本列島に広まったものがある。戦争だ。

     考古学の研究結果によれば、狩猟採集に基礎を置く縄文時代には、集団と集団とがぶつかり殺し合う戦争はなかった。専用の武器をつくらなかったし、ムラの守りを固めることもなかった。殺されたことが確かな埋葬人骨もごく少ない。

     ところが弥生時代に入ると様子が一変する。周囲に堀を巡らした環濠集落や、台地や山頂に築く高地性集落など、防御を固めた集落が現れる。青銅・鉄・石による専用の武器が登場し、武器を祭器として尊崇する信仰まで生まれる。

     とくに強烈な印象を残すのは、前述の青谷上寺地遺跡でも見つかった、殺傷された証拠を残す人骨である。神戸市の新方遺跡の墓地では、1列に葬られた男性3人の遺骨の中から、それぞれ石鏃が見つかった。そのうち壮年から熟年のたくましい男性は、頭から胴と腕にかけて、17個もの鏃を射ち込まれていた。いろいろな方向から弓矢で集中攻撃されたらしい。

     奈良市の四分遺跡の例もすさまじい。1つの木棺に一緒に葬られた若い男女の遺骨のうち、女性のほうは胸の部分に石鏃が1本。男性のほうは、背中や腰の左右から、鉄の武器で刺されたり切られたりした傷が数カ所、左の肩甲骨や左右の腸骨にある。さらに左の目あたりが鋭利な凶器で骨までざっくりと削られている(松木武彦『人はなぜ戦うのか』)。

    弥生時代に農耕と戦争が同時に広まった理由として、歴史学の通説では、農耕社会では狩猟採集よりもたくさんの生産物がとれ、富ができやすいから、その奪い合いが引き金となって戦争が起きると説明されてきた。

    国家は欲しい物をつねに暴力で奪う

     しかし、この説明には飛躍がある。人が他人の富を手に入れる方法は、奪うだけではないからだ。ドイツの社会学者フランツ・オッペンハイマーは、人間が生きるために必要な富を手に入れ、欲望を満足させるには、根本的に対立する2つの手段があると指摘した。労働と略奪である。

     オッペンハイマーのいう労働には、自分の労働で物をつくりだすだけでなく、それを互いの合意のもとに他人と交換することも含む。一方、略奪とは欲しい物を暴力や詐欺によって他人から一方的に奪うことを指す。オッペンハイマーは労働を「経済的手段」と呼び、略奪を「政治的手段」と呼んだ。政治の主体である国家は、欲しい物をつねに暴力で奪うからだ。奪う相手が自国民なら課税で、他国民なら戦争でという方法の違いがあるにすぎない。

     他人の富の略奪を目的とする戦争は、明らかに略奪である。しかし、富が欲しければ、交換という選択肢もあるはずだ。事実、弥生時代は異なる集団の間に戦争しかなかったわけではない。石材、木材、山海の産物など縄文時代以来の日常物資の平和な交換が、むしろ普通だった。

     だとすれば、問わなければならないのは、なぜ農耕によって築かれた富を手に入れる際、平和な交換という方法だけでなく、戦争という方法が新たに加わったかだ。

    戦争と課税はコインの裏表

     考古学者の松木武彦氏は、人工物や社会をつくったヒトの心に注目する「認知考古学」に基づき、弥生時代における本格的な稲作農耕と戦争とは、ひとつの文化を構成するセットをなしていた可能性があると指摘する。そのルーツは遠く海外にある。

     日本の縄文時代後半、世界ではいわゆる四大文明が芽生え、栄えていた。メソポタミアのチグリス・ユーフラテス両川のほとり、エジプトのナイル河谷、インドのインダス川上流、中国の黄河流域では世界に先駆けて大規模な農耕が始まり、都市が現れ、軍隊をもって戦争を行う古代国家が生み出され、王侯や貴族が支配の頂点に立つ社会が発達する。

    きっかけは当時地球上で進行した寒冷化に伴い、温暖なこれらの地帯に周囲から多くの集団が流れ込んだことにある。環境の変化を乗り切る方策のひとつとして、農耕によって自然を支配する一方で、武力によって人を支配するという支配的性向をもつ文化が編み出された。この文化が中国から日本に伝わり、弥生時代の戦争をもたらしたと松木氏はみる(『列島創世記』)。

     同じく考古学者、寺沢薫氏の指摘も興味深い。同氏はR・カーネイロの2つの戦争モデルを紹介する。第1は、アマゾンなど広大な未開の森林を控えた地域だ。負けたグループは征服や賠償の対象にされようものなら、森林の奥地に引っ越す。

     第2は、これとは対照的なペルーの海岸地帯だ。戦争で負けたグループは逃げるところがない。殺されるか勝者に隷属するかだ。敗者は勝者の政治組織に吸収される。この政体が拡大しペルー全体をまとめるようになったとき、インカ帝国が成立した。四大文明発祥の地もおおかたこのモデルだという。

     弥生時代の九州北部は第2のモデルそのものだと寺沢氏は言う。戦争に勝った共同体と敗れた共同体の間には歴然とした階級関係が生まれる。敗北した共同体は首長の下に一見従来どおりの生活を送っているように見えるが、じつは支配共同体に生産物や労働力の一部を貢納というかたちで税金のように支払ったり、特殊技術を提供したりする義務がある。

     寺沢氏は、九州北部では過酷な戦争を通じ、日常的な小共同体がクニ(大共同体)や国(大共同体群)、その連合へと統合されたと述べ、弥生時代前期末の紀元前3世紀末に生まれたクニこそが日本列島における最初の国家だとみる。定説とされる7世紀を大きくさかのぼる説だ。

     それでもオッペンハイマーが言うように国家の本質が略奪にあるとすれば、戦争でほかの共同体を隷属させ、税で財産を奪うクニは、小規模ながら立派な国家といえよう。国家は戦争から生まれ、課税によって育つのだ。

     ここで戦争についてひとつの教訓が導かれる。国家が他国民の富を奪う戦争と、自国民の富を奪う課税は、同じコインの裏表である。どちらも平和な交換を拒絶し、暴力に訴える略奪の異なる形態にすぎない。

     課税が最終的には暴力によって実行されることは誰もが知っている。世界から戦争をなくすには富裕層に増税し富の再分配を強化せよという主張もあるが、まったくの誤りだ。課税という暴力を好む心で、戦争の暴力をなくすことはできない。
    (文=木村貴/経済ジャーナリスト)

    <参考文献>
    木下正史『倭国のなりたち』(日本古代の歴史 1)吉川弘文館
    松木武彦『人はなぜ戦うのか——考古学からみた戦争』中公文庫
    松木武彦『列島創世記』(全集 日本の歴史1)小学館
    寺沢薫『王権誕生』(日本の歴史 02)講談社学術文庫

    https://biz-journal.jp/2018/09/post_24828.html

    ▲△▽▼

    戦乱の時代(受傷人骨と環濠集落・高地性集落)
    弥生時代は、縄文時代とはうってかわって、集落・地域間の戦争が存在した時代であった。

    武器の傷をうけた痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在などは、戦争の裏付けである。また、集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落なども、集落や小国家間の争いがあったことの証拠であると考えられてきた。

    受傷人骨

    弥生時代前期の墓には、人骨の胸から腰にかけての位置から十五本の石鏃が出土した例がある。

    多くの石鏃が胸部付近に集中して見つかる墓の事例は、瀬戸内海を中心とする西日本一帯に比較的多く見られる。かつては、戦闘の際に矢を何本も射込まれてやっと倒れた人物と解釈されることが多く「英雄」などとも呼ばれたが、近年では、矢を特定の部位に集中して射込まれていることの不自然さから、刑罰として処刑されたとか、何らかの儀礼的行為の際の犠牲(生贄)となって胸に矢を射込まれたなどといった解釈もある。平和的な解釈としては、埋葬の際に副葬品として鏃を胸のあたりに埋納したと考える者もいる。

    北部九州では、前期から中期にかけて銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先が棺内から出土することが多い。こうした例は、武器を人体に刺突した際に先端が折れて体内に残ったものと解釈される。しかし武器の先端を折りとって副葬品として棺内に埋納するという風習があったのではないかといった反論をする者もいる。

    佐賀県吉野ヶ里遺跡や福岡県筑紫野隈・西小田遺跡などでは、中期前葉の男性甕棺数が女性の倍にも達する事実があり、男性が戦闘に参加する機会が多い事を示すと考えられる。

    甕棺内に頭部を切断された胴体だけが埋葬されていたと考えられる事例が見つかっており、戦闘の際に敵に首を切られた死体を持ち帰り、埋葬したものと理解されている。

    戦争やテロの時に敵の首を取る慣習は、戦国時代や幕末でも続いていたが、その始まりは弥生時代にあった。しかしこのような例が本当に戦闘の犠牲者なのかは論証されておらず、何らかの儀礼的行為によるものと主張する者もいるが、未だ論証されていない。

    受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠である。

    例えば額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっているが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、戦闘による受傷者である可能性は極めて高い。

    また人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されているが、これらは武器による受傷人骨であることが明らかである。

    このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではないが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦争が頻繁に起こったであろう事は確実といわれている。

    また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半から中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められる事が特徴的である。

    弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされる。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられている。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少する。

    大規模な集団殺戮を示す遺跡としては、鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡が代表的である。

    日置川と勝部川の合流点の南側に弥生中期から村が形成され、弥生後期後葉に戦争の結果とみられる状況で集落が廃絶したと思われる(住居跡は未発掘)。

    東側の溝(防御施設と港の機能を兼ねていたか)から100人分を超える人骨が見つかり、少なくとも10体、110点の人骨に殺傷痕が見られた。

    人骨は女性や老人や幼児も含めて無差別に殺されており、刀剣による切り傷がついた骨、青銅の鏃が突き刺さった骨がある。治癒痕はなく、骨に至る傷が致命傷となってほぼ即死したと思われる。

    出土状況も凄惨で、溝に多数の死体が、埋葬ではなく折り重なって遺棄されている。

    遺物も、原型を保った建築物の一部や、様々な生活用品が、通常の遺跡ではありえないほど大量に出土している[40]。

    死者の中に15〜18歳の若い成人女性がおり、額に武器を打ち込まれて殺されている。

    殺戮した後、死体の処理と施設の破壊を兼ねて、死体や廃棄物で溝を埋め立てたものと思われる。

    略奪はしただろうが、破壊した住居や不要な生活用品は捨てられた。
    通常なら再利用や腐朽で失われるものが、保存条件もよくて大量に残存した。

    虐殺以後は集落は復興せず、現代まで水田として利用された模様である[41]。

    なお虐殺死体が弥生時代に増加すること及びそれらを研究することが専門の研究者にとっても大きな精神的負担になっていることを、松木武彦は新聞の評論で述べている[42]。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3

    被差別同和部落の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
    同和部落民は日本に先住していた縄文人・弥生人の末裔

    朝鮮から渡来した漢民族の天皇一族が畿内を完全に乗っ取って、被支配者の縄文人・弥生人を迫害してエタ地域に隔離したのが同和部落の起源

    ▲△▽▼

    畿内の被差別部落民は日本先住の縄文人・弥生人の子孫

    2013年12月17日 形質人類学のデータ

    第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、

    部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。

    とし、

    頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

    と書き、さらに、

    大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。

    と述べている(図2参照)。

    重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

    つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
    http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html

    ▲△▽▼

    小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」
    『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号

    畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
    東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
    とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。

    このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
    東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
    島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
    東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
    一致することは興味深い(以上、75頁)

    (追加)形質人類学的にみた未解放部落

    われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
    査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。

    (中略)

    身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
    頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
    は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
    一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
    東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

    畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
    ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
    いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。

    大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
    つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
    らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
    ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
    分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
    (大阪大学医学部教授)

    ▲△▽▼

    網野善彦 『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』 岩波現代文庫

    私がこの『東日本と西日本』を読んで、とくに衝撃をうけた記憶がはっきりとあるのは、小浜基次さんの論文でした。

    小浜さんは大阪大学の名誉教授で、形質人類学・解剖学の専門家、1904年に生まれ、1970年に亡くなっておられます。

    この文章は短いものですが、小浜さんは形質人類学の立場から日本列島の、
    東と西に住む人びとの差異をいろいろな角度から指摘しておられます。

    その中で私がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びとがきわめてよく似ており、
    形質上は同じであると指摘されている点です。

    そしてそれに対して、山陰・北陸と東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人の違いに比べて、
    はるかに大きく、東北、北陸の人びとはむしろアイヌに近いと小浜さんは強調しておられます。

    これは頭部の特性、短頭、中頭、長頭をはじめ、身体的な特質から導き出された結論ですが、
    さらに衝撃だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。

    小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、
    被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たちだというとらえ方をする人たちが、実際に関西では少なからずあったと思います。

    これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、
    差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。

    小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。

    ▲△▽▼

    埴原和郎 東京大学・国際日本文化研究センター各名誉教授

    私どもが行った現代日本人頭骨の分析からみても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で“特殊な日本人”ともいえる。

    その理由は、この地方で渡来系集団の影響がきわめて濃厚であるためと
    想像されるが、このような傾向は、すでに古墳時代に現れていたといえる。

    時代はやや下がるが、平安時代に編纂された『新撰姓氏録』によると、
    畿内の氏族一一八二氏のうち、ほぼ三分の一が渡来系の氏族といわれる。
    とくに新羅系の秦氏、百済系の漢氏、高句麗系の高麗氏などは
    代表的な氏族で、ともに畿内を中心として、ほぼ全国に拡散した。

    この他、日本書紀や続日本紀などにある渡来人の歴史をみれば、
    近畿地方に渡来系の特徴が濃厚に残っていることは当然ともいえる。
    そして人骨の研究からこれが裏付けられることは、日本人および
    日本歴史を考えるうえできわめて重要である。

    ▲△▽▼

    畿内の被差別部落民は日本先住の縄文人・弥生人の子孫 _ 2

    chielien_4f89277efa984404924a2bf6bさん 2016/8/30 21:55:06

    同和地区、被差別部落関連のご相談です。気分を害される方もいらっしゃるかと思いましたがネットで調べても詳しく分からないのでこちらでご相談させていただくことにいたしました。

    付き合って5ヶ月ほどの彼氏がいる30代の女性です。

    年齢のこともあり、付き合い始めからお互い結婚を意識した中で、お付き合いをしております。付き合って3ヶ月頃には互いの両親にも会うことができ、双方の両親ともに私たち自身は気に入ってくださっています。ただ、、彼のご両親が同和地区や被差別部落出身のことを気にされる方のようで、私の苗字と、両親祖父母の出身地が九州ということを知ると、祖父が部落出身ではないかということを気にされてるということを聞きました。

    第三者機関で調べてくださって結構ですとお伝えしたのですが、付き合いもまだ浅く、結婚の話にも具体的になっていないので調べないと言われました。彼もご両親と言い合いになったりして辛い思いをしています。なんとかこれから結婚という先を見て楽しくお付き合いを続けたいと思っているので、彼も私も自分達なりに調べたところ、そちらの出身ではないと思っているのですが、それでは信じてもらえる証拠にならず困っています。興信所に調べてもらいたいと思っています。そこでお聞きしたいのですが、

    ①自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。

    ②調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。

    ③曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。

    探偵も興信所も、部落問題は取り扱わないと記載されていることが多いので困っています。もちろん私も彼も差別はしてはいけないという考えですが、彼のご両親にも色々と事情があり、彼のことを思って気にしているので、彼とご両親を仲違いさせていることに心苦しいのです。ただ私も彼もお互いこの人と結婚したい‼︎と心から願っています。とはいえ彼の大切なご両親に祝福されないまま強行突破はしたくありません。わがままかもしれませんが、、

    とにかく調べる方法がなにかあれば助言をいただけると大変嬉しいです。
    また、同じような経験をされた方がいらっしゃったらどのようにされたのかお聞きしたいです。

    大変深い悩みで辛い思いをしております。差別だというご叱責は遠慮していただきたいです。

    ___

    Answer katuragi_893さん 2016/9/11 8:49:32

    部落とは元来、村の集落を表す単語で昔はズバリ、穢多村・穢多・非人村・非人と言っていましたが、余りに露骨すぎるので今は穢多村・穢多・非人村・非人の隠語で部落を使ってます。同和は「同胞融和」の意味でこれまた穢多村・穢多・非人村・非人の隠語です。(江戸時代中期以前は穢多と非人は違うモノでしたが江戸時代後期?頃から、セックス、混血、共同行動で今では非人も穢多に同化し同じモノです。有名な非人の末裔に「フーテンの寅」こと車 寅次郎がいます)
    https://www.youtube.com/watch?v=HR01VW7qpKY
    $$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$
    穢多とは奴隷の末裔で日本人じゃ無い。諸説あるが

    穢多(えた)とは
    日本人とは異なる異人種・異民族。
    古代、日本人との戦争に負けた民族が日本人に捕えられ奴隷となっていた民族、穢多族。

    非人(ひにん)とは
    罪を犯した者に与えられる刑罰の一つ。
    罪を犯した者は罰として、非人の身分に落とされた。

    穢多は奴隷の末裔。具体的には国栖・土蜘蛛の末裔(マレーポリネシア系人種)+蝦夷の俘囚+中世、近世の流民、罪人・賎民との混血。日本人では無い。

    室町時代から「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」との絶対的概念があるから、穢多族の子は確定的に穢多族に成る。それ故、穢多族男女は既成事実作り中出し妊娠H狙って来る傾向があり大変危険です。

    超強力な穢多部落優遇が存在してる段階で差別は無いし、現実は非穢多部落民が穢多部落民からヤリタイ放題されてます。穢多部落民忌避は邪馬台国と出雲帝国時代、2300年前からある日本の伝統文化です。西日本では婚姻忌避は存在していますが、あれは差別ではありませんし誰だって穢多の子は穢多で忌避される血筋を入れたくありません。もし、穢多部落民が逆の立場なら絶対穢多部落民の血筋は入れないでしょう。

    或る左翼部落問題活動家が自分の息子の嫁に穢多部落民女を忌避し破談にしたのはこの部落の真実知ってるからです。左翼部落問題活動家で息子の嫁に穢多部落民女を忌避した奴は狡い奴です。他人には穢多部落民と婚姻しても何ともないよ言いながら、自分の息子の嫁には人種的、歴史的に穢多と言う階級の真の意味を知ってるかから忌避したんです。ホントに狡い奴です。

    穢多部落民との結婚は彼も穢多部落民に成り、産まれて来る子も穢多部落民に成ると言う事です。わかっていましたか?。彼との子供も排除・忌避される側に成るという事です。本音と建て前、違いますから今でも就職忌避・婚姻忌避が現実に存在していますから貴方の子供が成人した時に穢多の血筋で就職忌避・婚姻忌避に遭遇するでしょう。。
    $$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$

    全部説明したと思いますが私の書き込みを絶えずチェックし絶えず削除
    依頼を出す真実を知られたく無い歴史隠蔽、穢多部落民血筋(DNA)拡散
    を狙う穢多部落民に付き纏われてるのでコピペで失礼します。

    実際、部落の問題にはこれがあり、奴等が「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と言えた義理ではありません。

    山口組ヤクザ約70%の者が部落出身者であり約10%の者が韓国人等の外国人。 カプランとデュブロ

    潜入ルポ ヤクザの修羅場(鈴木智彦著 文春ウェブ文庫)

    「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」彼のいう右翼も同和も”似非”を意味しており、純粋なそれに所属している人間たちにとっては迷惑な話だろう。しかし、彼の何気ない一言は、関西の暴力社会の基本構造をストレートに現している。鈴木智彦は曰く「暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ」、「大阪ではかつて、同和利権を制するものがヤクザ社会を制すると言われていた」。

    穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実。

    被差別部落と暴力団(鈴木智彦)

    穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実で、仮に一般人と穢多非人部落民が婚姻し、その婚姻が破綻し穢多部落民と離婚しょうとしても、離婚する時は、解同(人権団体)が出て来て「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と喚き散らし一般人の親・親戚の所に押しかけます。

    警察は相手が解同(人権団体)なのと民事不介入で介入してくれません。
    ヤクザ(暴力団)、右翼団体(政治団体)の場合は警察が介入してくれますが解同(人権団体)の場合は警察が介入しないのを知ってて奴等はやって来ます。
    $$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$
    穢多部落民は過去戦争を煽動・推進したことから天皇から絶対的に嫌悪・忌避・排除されています。

    穢多部落民忌避の根源は天皇が絶対的に穢多を嫌悪・忌避・排除してるからです。千年経っても変わりません。

    天皇・皇后、障害者支援施設視察

    :質問:
    ①自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。
    ②調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。
    ③曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。

    :回答:完璧に調べる方法はある。

    ただ、貴方が穢多だった場合、自殺、、、。。。魔の宗門人別改帳、江戸時代穢多管理は仏教(宗門)で行っていたので菩提寺が穢多寺なら絶対穢多で一般百姓は原則穢多寺を菩提寺に出来ません。曽祖父の嫁、曽祖母の菩提寺もついでに調べたら完璧に判ります。どの寺が穢多寺だったかは今でも完璧に判ります。逃げられません。徳川幕府の完璧な穢多部落民、嫌悪・忌避・排除に感謝すべきですね。

    私は前、この菩提寺による穢多判別の回答をしましたが、穢い穢多部落民共によって削除されました。でも、これが核心です。
    https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12163671097

    ▲△▽▼

    漢民族の天皇一族が日本を乗っ取った手口

    天皇一族は

    中国華北 → 韓国ソウル
    → 福岡県伊都国 → 日向、大和 、丹波 → 北九州、瀬戸内、畿内
    → 沖縄、北海道・東北北半分を除く日本全土

    の順に朝鮮を追われて日本に移民して以降、支配地域を広げて行った様です。

    弥生時代後期から昭和までずっと連続して朝鮮から長江系及び漢民族系渡来人が流入し続けて、遂に日本人(縄文人・弥生人)は少数民族となってしまいました。

    ____

    中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無いが、人口爆弾で他国を乗っ取ってきた:

    漢民族は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
    それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。

    引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/20/97ae91cd74d02dab5763add74c395063.jpg

    ユーラシア大陸の真ん中に陣取っている中国とロシアは、有史以来ほとんど戦争に勝った事が無い。

    中国とロシア(ソ連)は外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。

    もしかしたら紛争程度の小競り合いでは勝っているかも知れないが、国同士の戦争ではない。

    その代わり内陸の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。

    勝てない中国

    中国も同様で、秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

    モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

    局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。

    ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

    台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

    清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。

    清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

    だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

    さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。

    今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

    黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

    この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。

    戦争に勝てなくても領土を増やす方法

    そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

    稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

    長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。

    漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

    これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

    女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。

    チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

    半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

    台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。

    このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

    中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
    http://thutmose.blog.jp/archives/66023396.html

    ・東トルキスタンでは、最大100万人のウイグル人が「再教育」の名目で中国当局により強制収容されている。遺された幼児たちは「幼稚園」に入れられ、中国人の名前もつけられ、民族も漢民族として登録される。両親が再教育施設から出られたとしても、自分たちの子供を見つけることもできない。「幼稚園」の子供たちは、自分が中国人であること、中国共産党へ感謝することを教え込まれる。

    ・内モンゴル自治区では「浄化政策」がもう進んでしまって、ここ70年で、人口約2400万のうち、モンゴル人は2割以下になってしまった。経済は中国人に握られ、伝統文化の絶滅が図られている。

    ・チベットでは、チベット語の学校教育が禁止され、今年になってチベット教の寺院にも共産党員が運営委員として入って監視するようになり、寺院にも習近平の写真が置かれ、共産党の旗を掲げなければならなくなった。
    https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201811/article_13.html

    ▲△▽▼

    大阪鶴橋に済州島住民が多い理由 仁徳天皇が渡来人歓迎

    仁徳天皇や天智天皇は渡来人を歓迎し、百済洲や百済郡、百済寺に百済川もあった

    画像引用:地名で分かる渡来人の分布https://www.facebook.com/295367367249272/photos/a.296474680471874/298873963565279/?type=1&theater

    仁徳天皇時代には百済島や百済川まであった

    大阪市の生野区には日本最大の「移民地域」である鶴橋が存在しています。

    鶴橋駅前から市場に入ると韓国語が通用するし、それどころか日本語が通じにくかったりする。

    鶴橋の歴史は非常に古く、仁徳天皇の西暦400年ごろにはすでに大勢の百済人や新羅人が住んでいました。

    大陸では東晋が滅亡する末期で、半島では百済・新羅・任那日本府が並立し、半島南部はヤマト政権の支配下にあった。

    半島南部ではヤマトの大王(天皇)の支配の証である前方後円墳多数が見つかっていて、百済や新羅も日本の影響下にあった。

    仁徳天皇の2代前には神功皇后の三韓征伐が行われたと記紀に記されていて、事実である可能性が高まっている。

    奈良県でヤマト政権が成立したのは古墳からは西暦200年代と推測され、もっとも近い港である大阪湾が半島や大陸との交易地になった。

    当時の大阪市はまだ海に島が点在している状況で、生野区や鶴橋もまだ島や海岸だったと考えられています。

    百済や新羅の商人や労働者、上は貴族や王家まで様々な人が大阪や奈良に移民してきました。

    これが古墳時代の渡来人で、百済滅亡によって日本に難民が押し寄せて、特に大阪の生野区に移民が増えました。

    大阪湾には島が点在していると書いたが、当時は「百済洲」「新羅洲」という名前の島があり、名前の通り百済や新羅の人たちが住んでいた。

    鶴橋周辺には「百済郡」があり「百済川」まで流れていたと記録されています。

    半島からの移民受け入れに最も熱心だったのが仁徳天皇で、一時は大阪に住み、渡来人のようすを自ら視察したともされています。

    渡来人にとって仁徳天皇は最大の理解者なので、彼らが最大級の天皇陵を大阪に作ったとしても不自然ではありません。

    百済滅亡で難民が押し寄せた

    時代は下って西暦660年ごろ、斉明天皇と天智天皇(母子)の時代になり、ヤマト政権は半島の支配地を失いました。

    660年に同盟国の百済が羅漢同盟(新羅と漢)に滅ぼされ、663年に再興を目指した白村江の戦いで日本軍は負けてしまった。

    百済滅亡より前に、任那日本府も羅漢に滅ぼされていたと考えられます。

    百済滅亡にともなって大勢の百済人が日本に亡命し、縁故を頼って旧百済洲などがあった大阪に住みました。

    この中の滅亡した百済の王子・善光は天智天皇の許しを得て「百済郡」の領主となり、百済王一族は長く栄えたとされている。

    百済王敬福は大出世して750年に河内守となり、河内国に移住したが多くの百済人の子孫はそのまま残った。

    百済郡がどこだったのかは不明だが、鶴橋は「猪飼野」と呼ばれる百済人居住地でした。

    当時日本人はあまり豚やイノシシを食べず、百済人はイノシシを飼育していたのでこの名がついたとされている。

    百済を滅ぼした新羅の人も日本と絶縁したわけではなく、やはり大阪を中心に多く居住していた。

    こうした渡来人は日本にとっては労働力であり、当時としては進んだ技術や知識を持っていたので重宝された。

    たとえば法隆寺など日本の初期の寺は、百済人やその子孫が設計や建設に関わっている。

    渡来人は大阪湾の埋め立てにも動員され、習慣や文化の違いから他とは違う文化を築いていった。

    秀吉の朝鮮出兵の時にも大量の渡来人が移民または連行されて、大阪城や江戸城の建設に動員されたと言われている。

    韓国からの20万人大脱走

    時はさらに下って明治維新後は半島からの移住者が増えて、終戦時には200万人前後に達していました。

    1948年の調査では約150万人が韓国に帰国し、約65万人が残っていたが10万人は戦後に密航してきた人たちでした。

    このあと1948年から1953年にかけて「済州島事件」と朝鮮戦争、保導連盟事件によって20万人以上が日本に密航してきた。

    この一連の事件はアメリカが任命した韓国初代大統領の李承晩が行った大粛清が原因で、十万人I以上が日本に逃れたとされている。

    当時の研究では送還された人を除いて25万人が日本に密航した可能性があると書かれている。

    結局10万人ほどは朝鮮戦争が終わっても帰国せず、戦前からの居住者と混ざって「特別永住者」になっている。

    李承晩が最も弾圧したのが済州島で、30万人のうち6万人が犠牲になり、10万人ほどが日本に逃れた。

    鶴橋には戦前から済州島出身者が多かったので、縁故を頼って大勢の済州島民が鶴橋周辺に定住しました。

    これらの人たちが現在の鶴橋を形成し、一説には住民の過半数が半島系の先祖を持っている。

    日本に最初の渡来人が移住したのは縄文以前を除くと今から3000年前で、稲作を伝えたとされている。

    それから定期的に渡来ブームがあり、特に半島で戦争や混乱が起きると渡来が増え、やはり縁故を頼って大阪にたどり着く。
    http://www.thutmosev.com/archives/78516496.html

  • 東北と関東の縄文人は系統が別・・DNAを読む 2014-04-30
    https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/941b806ea44637d99bde4969c991b1c8

    マレーシアから東京に戻った私は、国立科学博物館を訪ねた。

    篠田謙一の研究室に向かう。

    積み重ねられている大きなプラスチックのケースの中味は、江戸時代の人骨だという。

    篠田のもとには、全国からさまざまな人骨が集まってくる。

    沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)の旧石器人。

    富山市の小竹貝塚の縄文人。

    東京・谷中の徳川家の墓地に埋葬されていた将軍の側室や子どもたち。

    「私はよく“骨を読む”と言います。

    骨からは、実にたくさんのことがわかる。

    形態からは当時の人たちの姿形や生活習慣を、DNAからは彼らのルーツを読み取ることができますから」。

    篠田はこのうち、古い人骨のDNAを調べる国内では数少ない研究者だ。

    わずかでもDNAが残っていれば、それを手がかりに日本人の起源を探ることができる。

    ここ20年ほどで急速に進んだ分野ゆえに、学会に大きな一石を投じることもある。

    たとえば、縄文土器などの文化をもつ縄文人について、かつては「南方からやって来たほぼ均質な集団」というのが定説だった。

    全国で出土した骨を元に、縄文人の顔つきを探ると、上下に短く幅が広いとか、彫りが深いといった共通の特徴があったからだ。

    ところが、縄文人のDNAには別のストーリーが秘められていた。

    2006年、篠田や山梨大教授らは北海道の縄文遺跡から出土した54体の骨のミトコンドリアDNAを分析。

    その特徴をもとにグループ分けし、関東の縄文人のデータと比べてみた。

    北海道の縄文人の6割を占める最大のグループは、関東では見られないものだった。

    このグループはサハリンなど、現在の極東ロシアの先住民に目立つ。

    2番目と3案目に多いグループも、カムチャッカ半島などの先住民に多い。

    東北の縄文人も北海道と似たグループ構成だった。

    対照的に関東の縄文人のミトコンドリアDNAを見ると、東南アジアの島々、中央アジア、朝鮮半島に住む現代人の特徴があった。

    「北海道・東北と関東では違いが大きく、同じ縄文人とくくるのがためらわれるほどだ」と篠田は言う。

    縄文人は「均質な集団」ではなく、日本列島の北と南でルーツが違っていた。

    浮かびあがるのは、そんなストーリ―だ。

    縄文時代、様々な人々がいろいろなルートで日本列島に入ってきたらしい。

    アフリカから東南アジア、そして日本列島へ。

    日本人の「祖先」のはるかな旅路の詳細は、骨の形や遺物を調べるだけではなかなか見えてこない。

    いま、DNAを手がかりに、「祖先」の足跡が次第に明らかになりつつある。

    篠田は言う。「私たちは、どこから来た何者なのか。それを知ることで、自分達がどこへ向かおうとしているかを確かめたい」
    https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/941b806ea44637d99bde4969c991b1c8

    東北・北海道の縄文人と関東以西の縄文人では遺伝子も言葉も全く違うのですね。

    東北・北海道の縄文人はアイヌ語
    関東以西の縄文人は日本語

    東北・北海道の縄文人はアイヌ人以外は既に滅びてしまったのです。

    日高見の国が高天原で、関東にあったとか言ってるアホがいますが、
    関東の縄文人と東北の縄文人とは言葉が違う全くの別民族です。

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