【日本コピペ紀】「歴史的事実」ならば逐語的に一致するのか【仁徳天皇・フロイス日本史の諸訳比較】

「歴史的事実」ならば逐語的に一致するのか。

百田尚樹『日本国紀』(幻冬舎, 2018)にはWikipediaやその他媒体から無断転載・改変していると思われる箇所が多数報告されています(関連リンク)。

ネット上では、この無断転載・改変を擁護するにあたり、百四が引用している箇所は「歴史的事実」を述べた部分であるから、創作性がないため著作権侵害にあたらないという主張があります。日本国紀の「かんしゅうしゃ」である谷田川氏も、同様の理論で『日本国紀』のコピペ問題を擁護していました(関連リンク)。

昨日、ウェブサイト「弁護士ドットコム」の深澤諭史弁護士のコラムでも、『日本国紀』におけるコピペが、歴史的叙述を引用したのか、それとも創作的叙述を引用したのかが重要な焦点になると述べられています。

そこで本記事では、一致量が多く、かつ諸訳を比較可能な「仁徳天皇」と「フロイス日本史」の二つについて「歴史的事実」と「創作性」の問題について扱いたいと思います。

仁徳天皇

まず、仁徳天皇の竈のエピソードを考察します。これは『日本書紀』に説かれるものです。以下に①日本国紀訳、②真木訳、③岩波訳の三者を比較します。

①『日本国紀』p. 53②真木嘉裕「聖帝・仁徳天皇 民のかまどは賑いにけり」大阪新聞(1991.12)③宇治谷孟『日本書紀(上)』岩波書店, 1988.
仁徳天皇四年、仁徳天皇が難波高津宮から遠くを見てこう言った。仁徳天皇四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて四年春二月六日、群臣に詔して、「高殿に登って遥かにながめると、
「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうら、地方は一層ひどいことろう」「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことあろう」と仰せられ人家のがあたりに見られない。これは人たちが貧しくて、炊ぐ人がないのだろう。昔、聖王の御世には、人民は君の徳をたたえる声をあげ、家々では平和を喜ぶ歌声があったという。いま自分が政について三年たったが、ほめたたえる声も起こらず、炊煙はまばらになっている。これは五穀実らず百姓が窮乏しているのである。の内ですらこの様子だから、都の外の遠い国ではどんなであろうか」といわれた。
そして「向こう三年、税を免ず」いう詔をした。それ以降、仁徳天皇は衣を新調ず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理しなかった「向こう三年、税を免ず」(みことのり)されました。それからというものは、天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理も遊ばされず、星の光が破れた隙間から見えるという有様にも堪え忍び給いました三月二十一日、詔して「今後三年間すべて課をやめ、人民の苦しみを柔げよう」といわれた。この日から御や履物は破れるまで使用され、御食物は腐らなければ捨てられず、心をそぎへらし志をつつまやかにして、民の負担を減らされた。殿のはこわれでも作らず、屋根のはくずれても葺かず、雨風が漏れて御衣を濡らしたり、影が室内からられる程であった。
三年が経ち、ある日、天皇高台に出と、炊煙が盛んに立つのを見て、かたわらの皇后にこう言った三年がたって、天皇高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申されましたこの後天候も穏やかに、五穀豊穣が続き、三年の聞に人民は潤ってきて、徳をほめる声も起こり、炊煙も賑やかになってきた。
七年夏四月一目、天皇が高殿に登って一望されると、人家の煙は盛んに上っていた。皇后に語られ、
「朕はすでに富んだ。ばしいことだ」
「朕はすでに富んだ。ばしいことだ」自分はもう富んできた。これなら心配はないといわれた。
すると皇后は言った。
「宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」皇后なんで富んできたといえるのでしょうといわれると、「人家の煙が国に満ちている。人民が富んでいるからと思われる」と。皇后はまた「宮の垣が崩れて修理もできず、殿舎は破れ御衣が濡れる有様で、なんで富んでいるといえるのでしょう」と。
これに対して天皇はにっこりて、こう答えた天皇はニッコリされて、こう申されました。天皇がいわれる
「よく聞け。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」「よく聞け。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」天が人君を立てるのは、人の為である。だから人民が根である。それで古の聖王は、一人でも人民に飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは自分が貧しいのと同じである。人民が富んだならば自分が富んだことになる。人民が富んでいるのに、人君が貧しいということはないのであると。
秋八月九日、大兄去来穂別皇子(後の履中天皇)のために壬生部を定められた。皇后のために葛城部を定められた。
その、諸国の人々から、「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もない。この時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります」との申し出が次々とあた。そのころ、諸国より「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もありませんもしこの時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります」
 との申し出が頻頻とあるようになりました。
九月、諸国のものが奏請し、「課役が免除されてもう三年になります。そのため宮殿はこわれ、倉は空になりました。いま人民は豊かになって、道に落ちているものもいません。つれあいに先立たれた人々もなく、家には蓄えができました。こんなときに税をお払いして、宮室を修理しなかったら、罰を被るでしょう」と申し上げた
しかし天皇は引き続きさらに三年間、税を免除した。そして六年の歳月が過ぎ、やっと税を課し、宮殿の修理をした。それでも、天皇は引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けになりませんでした。六年の歳月がすぎ、やっと税を課し、宮殿の修理をお許しになりました。けれどもまだお許しにならなかった。
十年冬十月、はじめて課役を命ぜられて宮室を造られた。人民たちは促されなくても、老を助け幼き者もつれて、材を運び土鏡を背負った。昼夜を分けず力をつくしたので、幾何も経ずに宮室は整った。それで今に至るまで聖帝とあがめられるのである。
①『日本国紀』p. 53②真木嘉裕「聖帝・仁徳天皇 民のかまどは賑いにけり」大阪新聞(1991.12)③宇治谷孟『日本書紀(上)』岩波書店, 1988.

同じエピソードであっても②真木訳と③岩波訳とで全く異なることが解ります。③岩波訳は逐語訳ですが、②真木訳は意訳です。そして②真木訳において大胆に意訳されている箇所(創作的要素)も、①日本国紀訳は継承していることが解ります。

【追記】第5刷において百田尚樹氏は、この箇所が真木訳からの無断転載・改変であったことを認めました(関連リンク)。

フロイス日本史

続いてフロイス日本史の「織田信長」に関するエピソードを比較します(この箇所の指摘についてはネトウヨの毒舌な伯父さんbot氏からいただきました。心より御礼申し上げます。)

①『日本国紀』pp. 143-144②ルイス・フロイス(訳:松田穀一、川崎桃太)『フロイス日本史4』中央公論社, 1981, 第32章.③ルイス・フロイス(訳:柳谷武夫)『フロイス日本史4』中央公論社, 1970, 第83章.
信長についてはこう書かれている。
極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格った
彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髭は少なくはなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。……彼は中背痩躯で、髭は少なく、声は甚だ快調で、きわめて戦を好み、武技の修行に専念し、名誉心強く、義に厳しかった。
ほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた彼はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。……彼は部下の進言に左右されることはほとんどなく、全然ないと言ってもよいくらいで、皆から極度に恐れられ、尊敬されていた。
彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。……日本の王侯を尽く軽蔑し、彼らに対してまるで自分の下にいる家来たちに対するように見くだした態度で口をきき……
神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった」とある一方、「極卑賤の家来とも親しく話をした神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。……ごく卑賤の者とも親しく話をした。……神仏の祭祀や礼拝はどんなことでも軽んじ、異教の卜占や迷信的な慣習はすべて軽蔑した。……ごく卑賤な、軽蔑されていた僕とも打解けて話した

この様に同じ原典からであっても、②松田・川崎訳と、③柳谷訳とで全く異なることが解ります。というのも通常の場合、「コピペした」という疑義を晴らすために、後発訳(②)は、先行訳(③)と意識的に異なる独自の表現、語彙を用います。にもかかわらず①日本国紀訳は、②松田・川崎訳と極めて酷似しています。

まとめ

このように二箇所を諸訳から比較しました。さすがに『日本国紀』の無断転載箇所について「歴史的事実」であるから致し方ないと主張することは難しいのではないでしょうか。

ところで、先に上げた「弁護士ドットコム」のコラムで深澤諭史弁護士は次のように述べています。

「翻訳された創作性のある表現には、原文の著作者の権利のほか、別に翻訳等した人にも著作権が生じます。もっとも、古い作品で、原文の著作権が消滅している場合は、翻訳等した人の著作権だけが残ります。

原文は同じなので、訳が似てしまうこともありえると思います。その場合も、表現の本質的部分が直接感得できるかどうか、依拠性があるかどうかなどで判断されます。通常、同じものを訳して類似した場合は、依拠性を認めることが難しいケースもあると思います」

【追記】第5刷において百田尚樹氏は、本記事で検討した「仁徳天皇」のエピソードが無断転載・改変であったことを認め、本文を修正しました。

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1 個のコメント

  • こうやって比較すると『日本国紀』がどのように作文されていったのか、痕跡が一層よくわかりますね。歴史の叙述だから文章が一定程度一致しても仕方がないのでは…などと思うこともありましたが、一致割合の問題ではなくもっと根本的な、執筆の基本姿勢が「お手軽コピペ改変でGO!」だったんだな、と改めて。
    分かりやすい記事・比較に感謝です。

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