【日本パクリ紀】『日本国紀』コピペ問題に対する「言い訳」の考察【百田尚樹】

コピペ改変の言い訳

百田尚樹氏がWikipediaからの無断転載(コピペ)を認めてから、ツイッター上は大混乱が続いています。当ブログでは、『日本国紀』が刊行されて以来、本書をウォッチしてきましたが、このコピペ問題が『日本国紀』の価値を決める最大の焦点であると考えています。

つまりアンチ側からすれば、無断転載は内容以前の倫理的・道徳的問題ですから、これを攻撃することは本書の価値をまさにゼロにするのみならず、百田氏らが主導する活動そのものを攻撃可能です。

一方、ファン側(および百田氏本人)からすれば、この無断転載が非倫理的・非道徳的と断定されては、本書の価値のみならず、その人自身の価値づけまで決定されてしまう訳ですから、何とかこれを食い止めようと様々な言い訳を主張し始めます。

本記事では、百田氏のファンや、百田氏自身が、このWikipediaコピペ問題をどの様に「言い訳」しているのかを考察していきたいと思います。

無断転載、引用、パクリ、コピペetc etc

まず「言い訳」の議論に入る前に、言葉の意味について整理したいと思います。ネット上では「無断転載」「引用」「コピペ」といった語の用い方にやや混乱があるように思えます。

私は最初の速報記事で「無断転載」という語を用いました。これは「適切な参照元の断り書き無くWikipediaから転載している」という意味であり、「無断引用」と同義で用いています。仮に適切な参照元の表示があったのであれば無断ではなくなり「転載」「引用」になると思います。

また一部ネットでは「無断転載」「無断引用」を「盗用」と同義に見る向きもあります。確かにそのような理解も可能であるように思えます。しかし「」という語は意味が強いため、要らぬ先入観を取り除きたいので私は用いていません。

コピペ」の語は、コピー&ペーストですからこの語自体には「無断」であるかどうかは含意されていないものの、揶揄的な意味で用いられることが多く、殆どの場合で「無断転載」「無断引用」と同義であるように思えます。

パクリ」の語の場合には、無断性が前提になっていることが多いように感じます。またパクったものは文章のみならずアイデアなども含まれるため、より広い概念として扱うことが出来るでしょう。

以上の言葉の意味を踏まえながら、具体的な「言い訳」について考察していきたいと思います。

参照元が明示されていれば問題ない

一部ネットでは百田氏のパクリ問題を受けて、「Wikipediaにも正しいことは書いてある、Wikipediaを引用して何が悪いんだ」という論調がしばしば確認されます。

しかしこの主張は問題の所在を完全に勘違いしています。Wikipediaを参照しようと引用しようと、しっかり参照・引用した旨を表示していれば全く問題ありません。適切な参照元を表示する義務は著作権法第48条においても定められています。

逐語的引用と改変

また、一部ネット上で、逐語的引用ではなく、言葉を部分的に筆者の言葉に置き換えて(改変して)いるから「無断転載」(パクリ)ではない論もたびたび見かけます。

しかしこの議論は正確ではありません。転載して改変した場合には、改変した旨を告知する必要があります(著作権法第48条CCライセンス)。したがって、参照元の存在に言及せずコピペし、それを少しだけ書きなおして、あたかも自分の著作として刊行してしまうことは「パクリ」と称されも致し方ない行為でり、マナー違反であることは疑いありません。

歴史的事実の問題

また、この問題の当事者である百田氏自身は、自身の無断転載について「それもね、大半が、それ「歴史的事実」やし、誰書いても一緒の話や」といって、無断で引用した部分は「歴史的事実」であり、誰が書いても一緒の記述になるから問題ないという理論を展開しています。

この「歴史的事実」とは「◯◯は昭和32年に生まれた」といったそれ以外に表現しようのない事実のことを指します。翻って『日本国紀』を検討すると、「歴史的事実」を超えた箇所までコピペ改変していることはほとんどと疑いありません。たとえば次の仁徳天皇の比較箇所を検討すれば明らかです。

『日本国紀』p. 53真木嘉裕「聖帝・仁徳天皇 民のかまどは賑いにけり」大阪新聞(1991.12)
仁徳天皇四年、仁徳天皇が難波高津宮から遠くを見てこう言った。仁徳天皇四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて
「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうら、地方は一層ひどいことろう」「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことあろう」
そして「向こう三年、税を免ず」いう詔をした。それ以降、仁徳天皇は衣を新調ず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理しなかったと仰せられ「向こう三年、税を免ず」(みことのり)されました。それからというものは、天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理も遊ばされず、星の光が破れた隙間から見えるという有様にも堪え忍び給いました
三年が経ち、ある日、天皇高台に出と、炊煙が盛んに立つのを見て、かたわらの皇后にこう言った三年がたって、天皇高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申されました
「朕はすでに富んだ。ばしいことだ」
「朕はすでに富んだ。ばしいことだ」
すると皇后は言った。
「宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
これに対して天皇はにっこりて、こう答えた天皇はニッコリされて、こう申されました。
「よく聞け。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」「よく聞け。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」
その、諸国の人々から、「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もない。この時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります」との申し出が次々とあた。そのころ、諸国より
「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もありませんもしこの時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります」
 との申し出が頻頻とあるようになりました。
しかし天皇は引き続きさらに三年間、税を免除した。そして六年の歳月が過ぎ、やっと税を課し、宮殿の修理をした。それでも、天皇は引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けになりませんでした。六年の歳月がすぎ、やっと税を課し、宮殿の修理をお許しになりました。
『日本国紀』p. 53真木嘉裕「聖帝・仁徳天皇 民のかまどは賑いにけり」大阪新聞(1991.12)

『日本国紀』が真木嘉裕氏の翻訳(二次創作)をコピペ改変していることは明らかです。さらに真木訳の「ニッコリ」は『日本書紀』原文には確認されない意訳箇所であり、『日本国紀』はこの創作部分までコピペ改変して「にっこり」としてしまっています。したがって「歴史的事実」以上のものを百田氏がコピペ改変していることは明らかでしょう。

量が少ないからOK論

また百田氏は、自身のWikipediaコピペは極少量だと発表し、しかもこれの拡散を希望しました。

もちろんコピペした量が多ければ多いほど問題的であるという理論は解ります。ですが当事者本人が、コピペしてしまったことを反省もせず、開き直るとは驚きです。まずは読者にお詫び申し上げることが先ではないか。また実際、これまで明らかになっているコピペ改変の分量は、百田氏の申告よりもはるかに多いものです(関連記事)。

総括

以上、百田氏自身、ならびにファンたちによる「コピペ改変の言い訳」を見てきました。なにより残念なのは、百田氏自身が今回のコピペを認めながらも開き直ってしまっていることです。そして一部の熱狂的ファンの擁護論も、開き直った百田氏を擁護し、著作権や知的財産権といったものを蔑ろにする傾向のあることは些か問題的であると思います。

読者の一人として言わせていただきますが、『日本国紀』においてコピペ箇所多数確認されることは、読者に対する裏切り行為であり、百田氏はそれに対して謝罪する責務を負っていると思います。

なぜなら百田氏は『日本国紀』の一行一行に、我々が考える何倍も書けて書いていたと豪語していたからです。

まさかその結果がコピペかと思うとやるせない思いです。さらに、『日本国紀』に書かれていることはすべて事実だとも豪語していました。

たとえ間違えだらけであっても、コピペではなく、百田尚樹氏自身の肉筆の文が読みたかった。私はそう思いますし、多くの皆様もそう思っているのではないでしょうか。

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2018.11.17

1 個のコメント

  • 失礼します。
    引用とは無断でやるものだから、無断引用という表現は間違っています。
    この場合は、無断転載というと思います。

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