靖国史観:遊就館に説かれる近現代史

近年の保守運動にとって靖国神社は一つのシンボルであり、A級戦犯合祀や歴史認識問題などをめぐって、諸外国との間のみならず、日本国民の間でさえも騒動の火種となっています。本記事では、その靖国神社に併設される博物館「遊就館」で説明される明治以降の歴史観、つまり「靖国史観」を眺めていきたいと思います。以下の年表では、歴史上の重要事件に関する記述と、一般の歴史教科書と異なる主張が見られる箇所の要点をまとめています。また「」に挟まれている文章は、2018年10月段階での遊就館の展示解説文、もしくはその図録(2008年初版)からの引用です。

年代内容
1868【明治維新】「十九世紀のアジアは、欧米列強によって浸食され、完全に独立を保っていたのは、日本とタイ王国(シャム)だけであった」。明治維新を通して日本は、西洋化を急速に進めながら富国強兵に励んだ。
1882-84【朝鮮半島情勢】明治15年の壬午事件や、明治17年の甲申事件によって朝鮮半島は「清国軍の武力介入をまねいた」。そして「日本は、天津条約で「朝鮮からの同時撤退、出兵時の同時通告」等の日清対等の関係を取り決めた」。(註:日本が朝鮮に派兵した理由などの説明なし)
1894【東学党の乱】朝鮮半島で内乱が勃発すると「清国軍「属邦保護」を名目に出動」。「日本軍、大島混成旅団を漢城へ派遣」。(註:日本の派兵理由、ならびに反乱が収束して朝鮮が日清両軍の撤兵を申し入れた旨などの説明なし)
1894【日清戦争】「朝鮮政府(大院君)の要請で清国軍を攻撃」。(註:日清戦争の大義名分の説明)
1895【下関条約】「下関条約(日清講和条約)によって、朝鮮の独立は確実なものとなり、我が国は長年の念願を果した。この他に新領土と賠償金を獲得した」。(註:朝鮮独立は日清戦争における日本側の大義名分)
1895三国干渉】下関条約で日本が得た遼東半島の返還を、ロシア・フランス・ドイツが要求。「一、朝鮮の独立を有名無実にする。一、西欧諸国の商業上の利益が妨害される。一、清国の首都に脅威を与え、東亜平和の障害となるとの理由で、武力を背景に返還を勧告した」。日本はこの要求を受け入れたが、ロシアに対して「臥薪嘗胆」の国民スローガンが起こった。
1900【北清事変】西欧列強(露、独、仏、英)は、日清戦争で弱体を暴露した清国に、露骨な利権要求」。義和団と清国政府は、北京の外国公館を攻撃した。「日本軍は連合軍の主力となった新劇・救援し、その精強さと厳正は際立っていた。特に、北京占領後の列強軍隊による略奪と対照的な日本軍の秩序ある行動は、北京市民に深く信頼され称賛された」。(註:日本の清国側への賠償要求や領土割譲要求などは「露骨」ではないらしい)
1904【日露戦争】開戦理由は一切述べられず、時系列に戦闘の紹介。総括として「日露戦争の勝利は、西洋列強の重圧下にたあったアジアの諸民族に独立の希望を与え、漢民族は辛亥革命で清帝国を倒し中華民国を建国した」。(註:中華民国の建国は、西洋列強からの独立ではないため例えとして不適切)
1910【韓国併合】米・英・露が認めた上で、さらに韓国政府の承認があった上で韓国が併合さえる。
1914【第一次世界大戦】細かい説明はない。ただし尼港事件で、赤軍パルチザンに日本人が虐殺されたことが紹介されている。
1919【人種差別撤廃提案】「日本政府は、パリ講和会議において、国際連盟の条約に人種差別撤廃条項を入れることを要求したが、アメリカと英連邦諸国の反対により棄却された」。
1927-28【山東出兵】「蒋介石の北伐に際して、我が国は在留邦人保護のため山東に出兵した」。「邦人居留民の虐殺事件が発見され、日本国民を憤激させた(済南事件)」。(註:在留邦人保護は、古今東西、派兵の正当化によく使われる。また、日本人が被害に遭った虐殺事件を細かく紹介している)
1931【満州事変】列車爆破事故の仔細などについて特段説明なし。事変後、関東軍の武力行使によって満州国が建国され、この「関東軍の行動は国民に支持されたが、列強はこれに強く反発し」た。
1932-33【リットン調査団・国際連盟脱退】リットン調査団が「満州は世界に他の例をみない特殊地域であり、単純に日本が侵略したというものではなく、事変前の現状に復帰できるものではない、と述べつつも、関東軍の行動を正当な自衛行動とは認めず、中国主権下の自治政府の建設を定義した」。日本はこれを不服として国際連盟を脱退。(註:日本軍の行動が純粋な侵略行為ではないことをアピール)
1937【支那事変】「日本軍に対する中国側の発砲という小さな事件」である盧溝橋事件を経緯に、日本と中国が「双方とも宣戦布告はせず」全面戦争の状態に入る。(註:コミンテルンの陰謀要素は説かれず)
1937【南京攻略作戦】「日本軍の開場勧告を拒否した防衛司令官唐生智は、部隊の固守を命じて自らは逃走した。統制は失った部隊は混乱し」南京は落城した。また日本軍の「松井司令官は、隷下部隊に外国権益や難民区を朱書きした要図を配布して「厳正な軍規、不法行為の絶無」を示達した。敗れた中国軍将兵は退路の下関に殺到して殲滅された。市内では私服に着替えて便衣隊となった敗残兵の摘発が厳しく行われていた」。(註:南京事件否定論に基づいた文書であることは瞭然。なお、より前の文章では「南京城内では、一般市民の生活に平和がよみがえった」とあったらしい)
1941【大東亜戦争に至る日米交渉】「平和を模索する日本の動き」にもかかわらず、昭和天皇は「平和的解決への努力を要望された」にもかかわらず、アメリカ側から「日本側提案に対する原則論からの批判ばかりで、我が国の交渉継続の希望を失わせた」の上、「従来の交渉経緯を無視した過酷かつ高圧的な」ハル・ノートが提示され日本「政府は交渉不可能と判断し」回線を決意した。(註:日本は止む終えず自衛戦争に至ったという大本営発表に通ずる言説)
1941【アメリカ側の開戦察知】アメリカ側は、開戦前から「対日戦を協議。特に、日本に最初の一発を打たせ、かつ米国の損害を最小限にする方法を検討した」。「大統領は、日本軍の攻撃は12月1日と予測して準備を命じた」。(註:ルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていたという陰謀論に通じる言説)
1944【インパール作戦】「インド国民退役軍人からのお便り」として、インパール作戦にい殉じた日本軍兵に対する謝状が展示されている(図録未収録)。
1945【終戦】終戦交渉を試みたが「米国には交渉による和平の意志はなく。ポツダム宣言まで、和平の機会が訪れることはなかった。我が国にはポツダム宣言で示された条件を受諾し、講和までの約7年間、占領軍の支配下で再建への道を模索する以外に道はなかった」。
1945~【GHQ占領政策】「日本が再び米国の驚異とならぬよう、物理的武装解除とともに精神的武装解除をおこな」い「占領軍は、神道指令、教育改革、検閲、さらに新憲法や教育基本法の制定などで、日本の弱体化を図った」。(註:現行の保守要素が端的に現れている一文)
1945~【戦後アジアの独立】「第一次世界大戦後に、日本が提唱して否決された「人種平等」の理想は、開戦劈頭に日本に敗れて権威を失った宗主国が、武力で阻止できるものではなかった。東南アジアの民族は次々と独立し、やがて独立運動はアフリカなどに波及した」。「日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることなく、独立戦争などを経て民族国家が次雨愧と誕生した」。(註:昔からよく聞く理論。ただし遊就館図録では、大東亜戦争が植民地解放戦争であったとまでは言っていない)

より先鋭的な歴史観が提示される「日本会議史観」については以下の記事をご参照ください。

日本会議史観

2018.10.22

強調されている点が異なることに気が付かれると思います。

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