反保守的第一章
本ブログでも何度か取り上げましたが、この『日本国紀』第一章は、①記紀神話からはじまらず縄文・弥生時代から始まるという点、②『古事記』『日本書紀』よりも魏志倭人伝を重んじるという点で、保守派の人間が書いた歴史書とは思えない異様な構成になっています。
なかには「別にそれくらいいじゃないか」と思われる方もいるかもしれませんが、実際にはこれは重大な問題です。
正統的な「保守」の史観からすれば、本来歴史教科書などは記紀神話からはじまることが常識なのです。戦後歴史教科書が縄文・弥生時代から始まり史書として魏志倭人伝(中国正史)を最初に取り上げる所以はGHQによって記紀神話が奪われた結果だからです。
よって保守にとって記紀神話を取り戻すことは、戦後GHQ史観を打ち砕くための至上命題です。
近年でも渡部昇一氏や西尾幹二氏といった保守論客は、通史的に歴史を論じる際には、必ず記紀神話から取り上げ、魏志倭人伝の史的価値を低く評価します。
『日本国紀』と有本氏との応答
この様なイデオロギー的常識があるにもかかわらず、『日本国紀』は縄文・弥生時代から記述が始まり、万世一系を否定し、魏志倭人伝を重んじる点で、戦後GHQ史観に基づいています。現在、保守論壇で活躍される方々が『日本国紀』の著者・編者・監修者を担当しているにもかかわらず、これは異様な事態です。正直最初は、百田氏か有本氏がリベラルに転向したのかと思っていました。
たとえるなら保守と呼ばれる人が、突然、朝日新聞を擁護しはじめたり、韓国は素晴らしい国だと言い始めるようなものです。そんなことしたら「転向したの?」ってビックリしますよね。それと同じことが『日本国紀』で起きているのです。
そこで次のように有本氏にリプライを送りました。

この発言は、『日本国紀』は歴史書としては問題的であるものの、保守論壇界において魏志倭人伝を高く評価した点で極めてオリジナリティが高いと判断したからです。
この発言に対して、ある方から「保守だったら魏志倭人伝を評価したらダメなのですか?」と質問を頂きました。それに関する回答は以下の通り。

これは先ほども述べた通り、保守は、GHQによって奪われた日本の歴史を取り戻すことを歴史戦の重要課題と位置付けているからです。
有本氏の頓珍漢な発言
以上を要約します。渡部昇一氏や西尾幹二氏など正統的な保守論客たちは、戦後GHQによって奪われた記紀神話を歴史の中に取り戻すことを課題としてきました。故に、この潮流に逆らい、魏志倭人伝を高く評価した『日本国紀』は極めて特異的なのです。
にもかかわらず有本氏は、全く頓珍漢な質問をしてきます。次の通り。

このツイートを読んではっきりと解りました。つまり有本氏は、記紀神話尊重・魏志倭人伝排除という史観を、渡部昇一氏や西尾幹二氏の個人見解だと思っていたのです。そのように思っていたからこそ、このような頓珍漢なツイートをしてしまったのです。
実際はそうではありません。記紀神話尊重・魏志倭人伝排除の動きは保守の至上命題の一つであり、決して渡部昇一氏や西尾幹二氏の個人見解ではありません。この流れを正しく理解していれば、先ほどの頓珍漢な有本氏のツイートは生まれなかったでしょう。おそらく有本氏(おそらく百田氏も)は保守一般が常識として抱いている「史観」というものを全く知らなかったと推測されます。
つまり、『日本国紀』が描く歴史は実は「自虐史観」そのものであり、皮肉にも有本氏(および百田氏)こそがWGIP洗脳から抜け出せていなかったということになります。
それゆえに自分たちが執筆・編集した『日本国紀』の古代日本史観が、実はリベラル・左翼的であったことに気が付かなかったのでしょう。無知とは恐ろしいものです。
これからどうなるのか
この問いかけを受けて、最後に私は次のように打ちました。

これに対する返信はありませんでした。保守に属すると理解されておきながら、全く保守的ではない『日本国紀』が爆発的に売れてしまったことは、今後、保守内での分断を招くかもしれません。
【追記】その後、竹田恒泰氏は『日本国紀』が万世一系を指定している箇所について苦言を呈しました。
どうして、百田さんの日本国紀は神話を語らないのかと思う。「私たちは何者なのか」と言ってネットで見る限りでは答えの部分を書いていないです。
皇祖神の天照大神は女神と思われていますが、女帝であった持統天皇が正統性を持たせる為に天照大神を女神にしたとのNHKの放送があったとネットに書かれていました。
キリスト教の絶対三神と神道の造化三神が等式で表されるのですが、天照大神は高御産巣日神(たかみむすびのかみ)で、イエスキリストと等しくなっています。
この世の初めに出現したのは、「天之御中主神」と同時に、「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」と「神産巣日神(かみむすびのかみ)」が姿を現わし
「造化三神(ぞうかさんしん)」と呼ばれています。
キリスト教では、父(=父なる神・父神)、子(=神の子・子なるキリスト)霊(=聖霊・聖神)となっています。イエスを神の御子と呼んでいます。
“『古事記』では次のように記述されている。 「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」 つまり、 アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、女陰をあらわにして、低く腰を落して足を踏みとどろかし(『日本書紀』では千草を巻いた矛、『古事記』では笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、天手力雄神に引き出して貰って、再び世界に光が戻った。”
以上ウィキペディアより
アメノウズメに相当するのがキリスト教では娼婦と呼ばれているマグダラのマリアで、復活したイエスに最初に会った人間として知られています。
イエスはゴルゴタの丘で、十字架に裸にされ、そして殺された。遺体は横穴式の墳墓に葬られた。だが、死後3日目に、墳墓の扉は開かれ、イエスは復活したとなっています。
以上のことより、天照大神は男で、イエスに相当するのが分かります。
古事記はキリスト教徒であった秦氏がうまく聖書をアレンジしてつくったものだと分かります。
スケベーな神がいて本当に昔はおおらかでした。スケベーはヘブル語でSKBH 肉欲的に寝るだそうです。
天照大神もイエスもスケベーだったようです。仏教も本質的にはスケベーです。性交している神を本尊にしている寺院が四国霊場にあります。
それが現在では結婚しない男女が増えています。神は嘆いていると思う。
そういう意味では『日本国紀』は従来の保守本とは一線を画するということですか。
保守界は百田さんや有本さんに教育を施していなかったのか…