【トンデモ】保守による「命」の授業(長野藤夫「命は他人事ではない:自尊心が当事者性を生み出す」『中学生に「命」の輝きを教える』明治図書, 2004)

命の価値の変動

TOSS中学・長野藤夫(編著)『中学生に「命」の輝きを教える』(明治図書, 2004)という、中学校教師向けのガイドブックがあります。

人権やヒューマニズムといった概念が重視されるにつれて、人間の「命」の価値はどんどん高くなっていっていると思います。戦前・戦中は「お国のために死ぬことこそが本当に生きることだ」などと宗教者さえも声高に叫んでいたわけですが、戦後すぐ1948(昭和23)年には「一人の生命は、全地球よりも重い」という金言が最高裁で生まれました(最高裁判例)。

僅か三年の間に「命」の価値は180度劇的に変動したわけです。長い目で見てもこれは同じことが言えます。聖書では神すらも、殆ど無意味に人を殺したり、苦しめたりしています(ヨブ記を参照)。現代的な価値観に基づくならば、神すらも、殺人を犯すという倫理的とは言い難い側面を持っています。昔と今とでは価値観が違うのですから、ある意味これは仕方のないことです。

このように、戦前・戦中と、戦後とでは「命」に対する価値観が全く違います。ですから戦前の出来事に基づいて、戦後の価値観を規定しようととするとどうして違和感が生まれます。

このような違和感を恐れず、戦前・戦中の出来事を以って、現代人の命の輝きの重要性を語ってしまったのが、本記事で取り上げる、TOSS中学・長野藤夫(編著)『中学生に「命」の輝きを教える』です。

本書を通じて私が感じる違和感は単純です。本書の「まえがき」で長野氏は、「命の輝きを教える」と言いながら、お国のために死んでいった特攻隊員の命の価値が高いという前提で話を進めます。ここで重要な点は、お国のために死ななかった命よりも、死んでいった命の方が価値が高いわけですから、実際には「命<死」という価値観の構造が透けて見えてしまうことです。本書には合計十五の論文が収載れていますが、この記事では第一章、長野藤夫「命は他人事ではない:自尊心が当事者性を生み出す」を取り上げてみたいと思います。

「テレビゲーム」と「他人事」

長野氏は論文「命は他人事ではない:自尊心が当事者性を生み出す」のなかで、そのタイトルにもあるように、生命を他人事ではなくその当事者として見るために自尊心を育む必要性を喚起します。が、その理論がよく解りません。

まず、生命が他人事のように感じられる論拠として、なぜか湾岸戦争・同時多発テロが「画面を見ている立場」から、少年のホームレス殺人・おやじ狩りが「自分がテレビゲームに出てしまっている立場」から、これら全てが等しく「テレビゲームのようだ」という点で共通していると主張され、次のようにまとめらます。

これらを、一つのキーワードでくくってみる。これである。

他人事(ひとごと)

ゲームなのである。ゲームだから、安っぽく、軽い。ゲームは所詮他人事なのだ。だからこうなる。

仮にも湾岸戦争・同時多発テロ・ 少年のホームレス殺人・おやじ狩りで多くの生命が失われてしまっているにもかかわらず、それを安易に「ゲームだから、安っぽく、軽い」と決めつけてしまっているところに議論の粗雑さがあるかと思います。また、正直、これら四つの事例から「テレビゲーム」という共通性が見出される妥当性も、さらにそこから「他人事」というキーワードが導かれる論理性も私にはいささかも理解できません。

生命の当事者意識

さらに生命の当事者意識の重要性を次のように言います。

テーマは「生命」である。
綺麗事は決して言うまい。綺麗事で語る「生命」は安っぽく、軽いものだからである。
綺麗事は「生命の教育」をダメにしてきたのだ。つまり、綺麗事も「生命」を他人事にしてきたのである。

この文章に論理性が全くないと感じるのは私だけでしょうか。これに続いて、「綺麗事」の例えが挙げられますが、これも論理性に問題があり、意味がよく解りません。

たとえば、海外で航空機や鉄道、自然災害などの事故が発生する。「災害に日本人がいるかいないか」という報道に対して、「日本人の安否しか関心が無いというのはおかしい」と非難する人がいる。
綺麗事である。
日本人が日本人の安否に関心を払うのは当然だ。それ以上に重要なことがあろうか。外国人の命よりも日本人の命のほうが相対的に重いに決まっているではないか。
にもかかわらず、人の命は同じ重さだ、などと綺麗事を並べるから、「生命」が他人事になってしまうのである。

外国人の命よりも日本人の命のほうが相対的に重いに決まっている」という爆弾発言があります。しかし冷静に考えてみてください。これら報道で日本人の安否を報道する理由は、単に「日本人にとっては、外国人よりも日本人の安否について関心がより高いのは決まっている」からでしょう。どうしてこれが「命の重さ」などという重大な議論に結び付けられるのか全く理解できません。

当事者としての解決法

このように長野氏は、生命を他人事ではなく当事者として扱うべきであると主張します。それでは同時多発テロといった生命の重大事件を、当事者としてどの様に解決すべきなのでしょうか。これについて次のように述べています。

「話し合いで解決しよう」
「外交努力で戦いを回避しよう」
という議論がある。
綺麗事である。

本物の「生命」がかかっているのである。そんな綺麗事を標榜しているから、「生命」が他人事になるのだ。

ところで、他人事になってしまうのはなぜかである。
キーワードはこれだ。

反戦平和

まず、「反戦」なのである。「反戦によらない平和」という発想が無い。つまり自分の視点しかないのだ。

恐るべき発言です。長野氏は同時多発テロの被害者の中に日本人24人が含まれているから、日本人は同時多発テロの当事者であると主張しています。さらにその当事者としての解決方法として、「話し合い」「外交努力」といった反戦平和を基調とする解決方法が他人事であり相応しくないと主張しています。

この長野氏の発言を拡大解釈すれば、「同時多発テロに日本人被害者がいるから、日本人はこの事件の当事者である。当事者であるから平和のために戦争を起こすことができる」という見解を提示することが可能になるのではないでしょうか。

「自尊心」が命を輝かせる

この様に恐るべき見解を提示したのち、突然、長野氏は最終章「自尊心が命を輝かせる」で、無実の罪で絞首台に上っていったBC級戦犯の遺書をあげ、彼らが「命」を前にした「当事者」であり、彼らの「自尊心」ゆえにその命が輝いていたと述べています。

長野氏がBC級戦犯の「自尊心」を感じるとする言葉をあげておきます。

「ますらをの道にしあればひたすらに務はたして今日ぞ散りゆく」
「己が身を顧みずして国のため尽すは武人の務めなるらん」
「国家敗戦の責めの一部を分担する事は又止むを得ぬ所である」
「我々の行動は何等天地に恥づる事なく死刑執行を受くる際も醜い死に方は致しません」

自尊心を語るためにBC級戦犯の遺言を持ち出す必要性がどこにあるのかよく解りません。また、この最終章はそれ以前の章と議論が結びついておらず唐突な感を受けますが、長野氏の思想信条を察するならば、ここにこれが置かれることは必然であったのかもしれません。

まとめ

長野氏の文章は、情緒的であり、かつ非論理的であるため大変読みずらいものでした。本論文の思想をまとめるならば次のようになるかと思います。

  • テロ事件などで日本人が被害者になれば、日本人は当事者意識を持ち、平和のために武力を行使することもやむを得ない。日本人にとっては、外国人の命よりも、日本人の命の方が重いのは当然である。
  • 当事者意識を高く持つために「自尊心」を養う必要があり、これを知るにはBC級戦犯の遺言書を参照すべきである。

なお同じ長野藤夫先生による「特攻隊」論は次の記事を参照下さい。

【論評】保守による「特攻隊」の小中学校教育(長野藤夫「恥ずかしいと思わんのか」『現代教育科学』49(8), 2006)

1 個のコメント

  • まあ、TOSSですから。自らを神格化させた教祖様、金儲けを指摘されると編集後記でぶちぎれた教育月刊誌ツーウエイの向山洋一氏が開祖ですから。放っておきましょう。それを保守などと断定しないでください。百田尚樹氏などの商業保守(内実は心情左翼)ですから。保守としての気骨も愛国もありませんから。

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