【日本国紀】「百人斬りは捏造記事だった」に見られる「事実を隠したままストーリーを語る虚構」

事実を隠してストーリーを語る

話題沸騰の百田尚樹『日本国紀』(幻冬舎, 2018)。良くも悪くもこれほど話題になる歴史本はなかなかないでしょう。しかしSNSを見ていると、これを読んで「歴史の事実が書かれている」と想い込んでしまったり、「民族の誇り」のようなものに目覚めてしまう人が少なからずいるようです。

これは余り健全な傾向ではありません。というのも、『日本国紀』はライトノベルであり、事実誤認やミスリードを誘う記述が多々見られます。つまり百田氏の主観に基づいた記述が多く、客観性はほとんど期待できません。このような客観性の不正確な情報に基づいて「歴史」を語り出し、加えて「誇り」まで抱いてしまうというのは大変問題があります。

前回、保守論壇の新聞社叩きの構造が『日本国紀』においても確認される点を指摘しました。今回はその続きで「百人斬り」事件に関するレトリックを紹介したいと思います。

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2018年11月10日

百人斬りは捏造記事という理解

今回取り上げる「百人斬り」とは、日中戦争中に日本軍兵士二人が中国人の捕虜などを据え物斬りしてどちらが先に百人に到達するか競争したという事件です。これが事実ならば、日本軍は捕虜を虐待・虐殺していたわけで、「南京大虐殺は無かった。日本軍の残虐行為はデマ」と吹聴している保守にとって極めて都合が悪いです。

この事件について次のように百田氏は述べています。

なかには荒唐無稽な創作記事も数多くあった。東京日日新聞(現在の毎日新聞)の「百人斬り」の記事などはその典型である。これは支那事変で陸軍の二人の少尉が、「どちらが先に敵を百人斬るかという競争をした」という事実誤認に満ちた根拠薄弱な内容だ。しかし戦後、この記事が原因で、二人の少尉は南京軍事法廷で死刑判決を受け、銃殺刑に処された(毎日新聞は現在も記事の内容は真実であったと主張している)。

 百田尚樹『日本国紀』幻冬舎, 2018, p. 382

このように、百人斬り競争は、戦意高揚のために著された新聞社の「荒唐無稽な創作記事」であり、それも「事実誤認に満ちた根拠薄弱な内容」だというのです。

どの様に創作・捏造なのかが問われるべき

こことで問われるべきは、百人斬り記事のどの部分がどの様に創作だったのかです。たとえば「百人斬った」のは流石に誇張でも、「十人くらいなら斬った」かもしれないということです。

この百田先生の文を読むと、まるで「百人斬り競争そのものが事実無根の捏造記事であり、実際には一人も斬られていなかった。両少尉は無実の罪で処刑された」とも読めてしまう文章です。様々な解釈の余地を残した文章で、率直に言って悪文です。

この「百人斬り競争」と呼ばれる事件は、秦郁彦氏の調査や百人切り競争裁判を通しての次の点が明らかになっています。

  • 100人斬ったというのは現実的に考えられないので、誇張した表現であると考えることが合理的。
  • しかし、捕虜を並べて据え物斬りをしていたという事実は、様々な証拠から具体性・迫真性を有すると評価できる。事実、野田少尉の友人が「捕虜を斬った」という話を本人から聞いていたことが確認されている。

よって百田氏は、「事実を隠したままストーリーを語る虚構」が起きないように、知られている事実を率直に述べ、読み手に誤解が起きない表現に改めるべきでしょう。

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1 個のコメント

  • 捕虜を打首にした話なら陸軍兵だったうちの祖父も実際にやった事あると言ってました。正確には「国府軍正規兵の捕虜」ではなく、いわゆる「便衣兵」「匪賊」と呼ばれたゲリラ兵だったようですが。祖父の場合は『上官に軍刀渡されて、興味半分で振るってはみたが斬首に失敗し、苦しむゲリラ兵と狼狽する祖父を見かねた上官が、祖父から軍刀を取り返して一太刀で介錯した』というもので、成瀬関次氏の『実戦刀譚』(昭和16年)に祖父の体験談とよく似た話が多く書かれています。

    ただ、相手が正規兵であれ、便衣兵であれ、今の中国人から見れば私の祖父が「日本兵として、支那人を斬った」というのには変わりがないんですよね。いくら「戦時国際法ではゲリラは捕虜として処遇できない」とか、「民間人を盾にするような戦法を取った国府軍にも非がある」「そもそも今の中国は当時の日本との交戦当事国ではない」等々と言っても、ろだんさん的な物の見方をすれば「国内向けの方便でしかない」訳で。

    でも、ドイツとロシアは独ソ戦で互いにかなりの数の民間人を殺傷しあっているし、米国は沖縄戦やサイパン戦で日本人を、ベトナム戦争でもベトナム人に相当な事をやっている。韓国に至っては朝鮮戦争で保導連盟事件のような事をやってしまっている・・・、けれども二国間関係や内政の上で無視できないレベルの大きな問題にまでは発展してない。たまに両国の政治家同士が歴史認識での舌戦をやることはあっても、国民世論や論壇が二分されるような大問題にまではならない。この差は一体何なんだろうか? と思うことは多いですね。

    個人的には、諸外国では「事実関係と道義上の責任は認めるが、後は『だから何?』と居直ってしまう」パターンが多いような気はしています。そう考えたとき、日本の特に保守論壇の場合は「事実関係を認められない」故に、「居直ったり開き直ったりして道義責任以上の問題に踏み込ませない」という突っぱね方が出来なくなっちゃうのかな、という印象にはなります。「事実関係を認める」事が「相手国への多額の賠償」と、「自国子女に対する当該事案の否定的教育」とでセットになってしまう事が多い日本の左派論壇も、それはそれで問題があるとは思いますが・・・。

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