聖書には天動説が説かれているか? 地動説が説かれているのか?

メッセージ

先ほど大変真面目な方からメッセージを頂きました。別の記事で、聖書には天動説が説かれていると理解されており、それが原因で地動説を唱えたガリレオが迫害されたという旨を書きました(参照リンク)。

これに対して次のようにメッセージを頂きました。

「太陽は地球のまわりを回っている」
 聖書は、「地球が止まっていて、太陽が地球のまわりを回っている」という天動説を唱えていると、誤って理解している人は少なくありません。
 しかし実際は、聖書の中に、天動説的な言葉は一切ありません。

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つまり聖書には天動説は説かれていないというのです。

これは聖書解釈をめぐる重要な論点であり、現代にも応用し得る課題です。 公益性があるため、ここで反論申し上げます。

結論的に言えば、聖書は基本的に天動説に則って書かれていたと考えます。しかし聖書には宇宙の構造が事細かに描かれているわけではなく、解釈の余地を残します。よって後付け理論としてそれを地動説として読むことも可能でしょう。

聖書解釈

まず、聖書における天動説の根拠をあげます。それは以下の箇所です。

ヤハウェが、アモリ人をイスラエルの子らの手に渡した日、ヨシュアはヤハウェに語り、イスラエルの目の前で次のように言った。

 「太陽よ、ギブオンの上に留まれ。
 月よ、アヤロンの谷に留まれ」。
 すると太陽は留まり、月は止まった。
 民がその敵に報復するまで。

これは『ヤシュルの書』に記されているではないか。
太陽はまる一日の間、天の中空に留まり、急いで没することがなかった。

『岩波委員会訳聖書』「ヨシュア記」第10章12~14節

この箇所は伝統的に天動説の根拠とされます。事実、マルティン・ルター(1483-1546)はこの箇所を引用して、コペルニクス天文学を批判しています。

この狂人〔コペルニクス〕は全天文学をひっくり返そうとしている。しかし、聖書が告げているように、ヨシュアは太陽に動かぬように命じたのであって、地球に命じたのではない。

Luteher, Tischredenm ed. Wimar, Vol. II, p. 419. 訳: ファントリ, A.(訳:須藤和夫)『ガリレオ――コペルニクス説のために、教会のために』(みすず書房, 2010, p. 40 註40)

よって少なくともルターにとって、聖書には天動説が説かれているのです。

ガリレオの立場と、カトリック教会の立場

それでは地動説を唱えたガリレオはどの様に聖書を読んでいたのでしょうか?

ガリレオは自身が観測して得られた地動説を信じるとともに、聖書の無謬性もまた信じていました。

ゆえにガリレオは、これまでの我々の聖書の読み方、つまり天動説に基づいた聖書解釈が間違っていただけであり、聖書に地動説が説かれていても矛盾は生じないという立場をとりました。現在の教皇庁もこれと同じ立場です。

故に、聖書は、天動説が有力な時代にあっては「天動説が説かれている」と解釈されたのであり、地動説が有力な時代にあっては「地動説が説かれている」と解釈されたにすぎません。

聖典は人間そのものです。我々はついつい人間を離れて、聖典の中に普遍的な審理があるかのように錯覚しますが、事実はそういうものではありません。読み手に応じて聖典の意味は常に変わるのです。

もちろんこの前提は、歴史にもあてはまります。歴史的事実とは、実は人間(解釈)の外側には存在しないのです。



5 件のコメント

  • キリスト教の信仰史的には、地球平面説にせよ球体説にせよ天動説が大前提であり、太陽中心説にせよ単体での地動説にせよ、実際にそれが支持(継承または独自提唱)されていたかは、証明が困難な様に思います。
    とは言え『実は、聖書の諸記述を各説に基づき解釈可能』であれ、その点は天地創造という教義には影響がありません。
    各説の提唱者による典拠化を除くと、余り人類文化上の意義はないと思います。
    事実を下部構造として、解釈という上部構造が存在します。
    信徒が生存出来なければ、内心の自由に留まる信仰も存在しないので経済が下部構造となります。
    しかし、その程度の事実認定さえ蔑ろにして『精神的充足』や『霊的意義』を下部構造扱いするのみならず、『皇祖や英霊に非ざれば下部構造に非ず。世界宗教であれ唯物史観であれ否定する物は反日』という、国粋主義者の狂信的な解釈が問題です。
    当面は、「日本国紀は史書どころか思想書や創作物にも非ず」という認定を、右左両派の下部構造にしなくてはなりませんが…

  • 聖書の素人でもすごく解りやすい反論だと感じました。通説で言われていることが原典当たると実はそうではないっていういい例だと思います。

    歴史で解釈の問題だと「数字」になるんでしょうかね?
    鎮圧の際100人の死者が出た事件を「虐殺」と解釈する人もいれば、「大規模な騒乱」と解釈する人もいる。大事なのは「各々の数字を正確に記述する」「複数の説があるなら必ず併記をする」事であって、例えば「死者と負傷者を混ぜた死傷者数しか表記しない」といった誤認が起きかねない事はやってはいけない。そこさえ守っていれば、たとえ数字を記述した筆者が何らかの思考誘導の意図を持って本文を書いていたとしても、「他の事例と比較した時、そんなに大したことではないのかも?」とか「いやいや、これそんな軽く書いていい事じゃないじゃん!」とかの読者側の解釈変更が可能になると思います。

    日本国紀は単なる歴史随筆を歴史書と強弁している点を差し引いても特にひどい事例ですが、これに限らず「歴史物語」的な書物や随筆その他の創作物は、示されている数字の典拠が恣意的である事が多いですし、「〇〇はこうである!」という筆者の解釈が前提にあって本文が書かれているので、「歴史を自分なりに解釈する」という作業の中では、(その作品や作者の世間的評価がどうであれ)結構弊害の多い代物なのかもしれません。創作物は歴史を学んでいく上での切っ掛けとしては有用な効果があると思いますが、その作品の史観だけで自身の解釈も凝り固まっている人って本当に多いような気がします。

    • ありがとうございます。複数説併記はなかなか難しいところで、いわゆるトンデモ説まで併記するのか!?という議論になるかと思います。

  • 「聖書には天動説が説かれているか? 地動説が説かれているのか?」での、「聖書は天動説を唱えていると誤って理解している」
    という私の指摘に対する反論なのですが、「マルティン・ルターが言っている」は反論にならないです。
    マルティン・ルターは神ではないです。一般論で確かめるなら、辞書に「天動説」はどのように書かれているかです。
    ネットにあったブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説では、
    “地球が宇宙の中央に位置して静止し,太陽,月などが地球のまわりを回るという説。太古の素朴な宇宙観は,アレクサンドリア時代にいたるまで徐々に発展し,観測研究を積重ねて,宇宙の中心にある地球を太陽,月,五大惑星,それに恒星をちりばめた天球がめぐっているというプトレマイオスの宇宙体系を生み出した。観測結果と合せるため,五大惑星の運行は地球の周囲を公転する1点の周囲を小円を描く複円運動によって説明される。この体系が 15世紀にコペルニクスの地動説が現れるまで,天文学の絶対的な権威として千数百年もの間君臨した。”
    となっていて、「聖書」のことは一言も書かれていないです。「天動説」は科学だったのです。
    アインシュタインの「相対性理論」も否定されるかも分からないです。それと同じです。
    論壇ネットさんは、科学は不完全で間違いがあることを理解して下さい。

  • キリスト教会と天動説。
    小生が、小学生時代に読んだ学研の雑誌「科学」では、しばしば「ローマ法王庁はルネッサンス、自然科学についてアリストテレスの学説を公認していた。アリストテレスは天動説だったから、地動説は法王庁の権威に反逆するものとして弾圧された」と書かれていました。

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