【日本国紀】辻田真佐憲氏の論評に答える【社会の分断を超えていくような検証や批判とは何か】

毎日新聞の記事への感想

本日(2018.12.20)、毎日新聞のウェブ記事 「売り上げ好調 百田氏「日本国紀」に「コピペ」騒動 専門家の評価は?」 が公開され、専門家として秦郁彦氏と辻田真佐憲氏の両者がコメントを寄せていました。

秦郁彦氏は主に内容の真偽問題について批判的なコメントを寄せ、辻田真佐憲氏は現在ツイッター上で繰り広げられる『日本国紀』批判に対して冷ややかな態度をとるという内容でした。

保守論壇で(ほぼ唯一)信頼できる現代史家の秦郁彦氏が本書に対して批判的であるのに対して、リベラル系の印象が強い辻田真佐憲氏が批判に対して冷ややかな態度であるというのは印象的です。このような不可解さが『日本国紀』の魅力の一つでしょう。

このうち秦氏の書評はより詳細なものが近日中に発表されるということで、今回は辻田真佐憲氏のコメントを中心に取り上げたいと思います。

辻田真佐憲氏の論評の要旨

辻田氏の発言の要旨は、「現在、ツイッター上などで繰り広げられているコピペ疑惑批判などが、“金太郎あめ”状態にあり、批判者側だけの中にとどまり、書籍を神棚に祀ってしまうような百田氏信者にまでは届かない」ということのようです。

また、このような批判を通して「単なるネット上の“百田たたき祭り”で終わってしまい、結果的には社会の分断を広げるだけで終わってしまう」ということを危惧しています。

本ブログはこの“百田たたき祭り”の前衛を担ってきたと自負していますから、この点について応答したく思います。

歴史認識問題をめぐる、これまでの解釈論争こそが“金太郎あめ”

まず、コピペ批判が“金太郎あめ”状態にあるという批判について答えます。

確かに「コピペ疑惑批判」をマクロ的視点から評すれば、現在のツイッター上での言説が、“金太郎あめ”状態と評価することも可能であるかもしれません。なにせ、すでにコピペされたと疑われる箇所は相当数見つかっていますので。

しかしここ20年間ほど続く歴史認識問題の論争史というマクロ的視点に立てば、コピペという切り口からの批評というのは極めて斬新です。なにしろ左右の解釈問題とは異なり、倫理違反という点で左右の分断を乗り越えて共闘できるものです。このような切り口はこれまで全くありませんでした。

むしろ、ここ20年間の歴史認識問題をめぐる議論こそが“金太郎あめ”状態であったと思います。乱造されている保守系の歴史本を読むと、その内容は殆ど異口同音で、出典不明の海外要人の言葉などが「パブリックドメイン化」してコピペされ続けていることに気が付きます。20年前と比べて、その骨子には何の進展もない状態です。

このような保守の歴史戦に対して、リベラル・左派側は学問という土台で保守側の歴史解釈の問題を散々非難してきましたが、保守本が“金太郎あめ”状態なのですから、それに対する反論も“金太郎あめ”状態に陥っているように思います。『週刊金曜日』が組んだ「日本国紀特集」を見れば瞭然でしょう。基本的に左右共に進展がないのです。

『週刊金曜日』の日本国紀特集の無能さを嘆き批判する

2018年12月8日

歴史認識の問題を論じても不毛である

また、辻田氏は「社会の分断を越えていくような検証を」と訴えています。しかしこれが、『日本国紀』に書かれている記述の解釈上のファクトチェックを意味するならば、それは全く役立たないと断言します。

それはこれまで”金太郎あめ”状態であった左右の歴史戦を見れば明らです。私はこの歴史戦について、これは歴史”認識”問題というよりも、歴史”解釈”問題のほうが正確で良いと考えています。

たとえばアジア太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦動機について、①「解放」つまりアジア諸国を解放して大東亜共栄圏を打ち立てると主張する資料が残されているのと同時に、②「侵略」つまりアジア諸国を日本が植民地化しようとしていたとする資料も残されています。このように、実際には左右共に「根拠がある」ことが重要です。

保守・右派は、①「解放」 の資料を極めて高く評価し、さらに国外の要人が「日本ありがとう」と言ってくれたコメントを拾い上げて、大東亜戦争は植民地解放戦争だっただのなんだのと主張するわけです。

一方の、リベラル・左翼は、①「解放」など建前であり、②「侵略」こそが本音だと評価するわけです。そして、たとえ国外要人が「日本ありがとう」と言っていても、そんなのはリップサービスであり、侵略されたというコメントだって幾らでもあるというのです。

つまり残されている膨大な資料は、本音、建前、理想、現実、願望、憶測が入り混じった複雑多様なものであり、そこから均一的・単一的な結論を導くことは不可能です。 あくまでも ①「解放」とする立場も、②「侵略」とする立場も解釈上の結果であるということを念頭に置く必要があります。

にもかかわらず現在、①「解放」の立場だけが歴史修正主義の誹りを受ける理由は、端的に言えば敗戦したからであり、そして戦後から現代に至るまでの保守・右派による歴史戦が余りに稚拙だからでしょう。

しかし「アジア諸国を白人支配から解放する!」という大本営発表的資料は現に存在するので、この①「解放」の解釈自体を成立不能にすることはできません。また、強力なイデオロギーがその背景にあるため、より先鋭化した大東亜解放論が熱烈に信仰されてしまいがちです。

この様な状況にあって資料解釈の是非を論じても、辻田氏が言う所の「社会の分断を越えていくような検証」にならない点は明確です。これが事実であることは、これまで20年間以上、延々と堂々巡りの“金太郎あめ”状態であったことが雄弁に物語っています。次の秦郁彦氏の言葉はこれを端的に示しています。

その結果、大東亜戦争を日本の「侵略戦争」と規定するプロの左派歴史家と、それを「自衛戦」ないし「聖戦」と見なすアマの右派歴史家が同じ土俵で対峠するのを、不毛なイデオロギー論争に割りこむのをためらい沈黙するか見守るだけの中間派という構図ができあがる。

秦郁彦『陰謀史観』新潮社, 2012, p. 242.

実際には歴史認識を論じてるのではなく、イデオロギーを論じている

もしかしたら「話せばわかる」「議論を深めれば分断を乗り越えられる」と考える人もいるかもしれませんが、それは希望的憶測です。すでに“金太郎あめ”状態の歴史認識論争がこれを証明しているのみならず、実体験で恐縮ですが、何を言っても解り合えない層というものは一定数存在します。

これは歴史を論じているようで、実際にはイデオロギー論争に過ぎず、もっと端的に言えば宗教戦争なのです。

よって皮肉なことですが、歴史の認識・解釈を論じているにも関わらず、相手を納得させるためには、歴史を論じているようでは効果がないと考えます。

『日本国紀』は左右共闘できる数少ない奇書

その点において『日本国紀』のコピペ問題は、内容の真偽やイデオロギー以前の「倫理観」の問題です。ゆえにツイッター上では、左右が共闘して『日本国紀』を非難するという不思議な構図が出来上がっています。したがって、辻田氏が求める「社会の分断を越えていくような検証」とは、まさにこのコピペ問題ではないでしょうか。

また、コピペ本であるにもかかわらず著者が「渾身の筆を振るった」などと嘯いたり、保守論客であるにもかかわらず保守の歴史戦を全く理解していなかったりすることは、著者の百田尚樹氏が所詮ビジネス保守でしかなかったことを如実に示しています。この点についても多くの保守は批判的です。

そして、このコピペ問題に加え百田氏側は、出版前には「書かれていることはすべて事実」だの、「ヘビのように入念にチェック」しただの吹聴しておきながら、実際には、単純な事実誤認が頻出し、読者の期待を裏切りました。さらにその後の「開き直り」とも取れる百田氏や有本氏の発言、ならびに消費者の願いに全く答えない幻冬舎の対応にも怒りの声があがっています。この点についても、左右共闘状態にあります。

まさに今ネットで起きている『日本国紀』への批判は、左右の垣根を超えたものになっています。これは稀有な現象であると思います。そしてこの共闘を通して、このような煽情的な粗悪本が世に出回りにくくなるならば、それは素晴らしい結果でしょう。

まとめ

以上、『日本国紀』が置かれている状況は、普段は高尚な説法を垂れている僧侶が、じつは裏ではやましいコトをしていたと報道されている状況と同じであるように感じます。国士気取りの百田氏が、実際にはコピペして本を粗造していたわけですから。

この現実を前にしても、尚も百田氏を奉ずる読者は多いでしょう。しかし、これはもはや“信仰”の一種であり、これを説得することは非常に困難です。宗教にハマったひとを抜け出させるのと同じでしょう。「Wikipediaの記事を百田氏が執筆した可能性があるから、全く問題ない」という旨を主張される方もいます。これをどうやって折伏すればいいのでしょうか?

そして、少なくとも今回の騒動で「醒めた」と感じた人も一定数いることは確かです。その点でコピペ問題を中心とする議論は「結果的には社会の分断を埋めた」のであり大きな意義があったのではないでしょうか。加えて、このコピペ問題を喧騒し、『日本国紀』の荒唐無稽さを笑い飛ばすことで、信者に至らない「普通の日本人」のリテラシー意識が高まれば、それこそが最大の成果であると確信します。

確かに強固な信仰心を抱く読者にも通じる「社会の分断を超えていくような検証や批判」が見つかったならば、それはさらに素晴らしいことでしょう。 もしその方途をご存じであるならば、ぜひ辻田氏に伺いたく思います。

【3%超え】Wikipediaなどからのコピペ量を計算してみた【日本コピペ紀】

2018年11月21日

【まとめ】百田尚樹『日本国紀』(幻冬舎, 2018)の関連記事まとめ

2018年11月17日


10 件のコメント

  • 問題点を的確に指摘されていて、改めて感服しました。本記事が右左関係なくたくさんの人に読まれることを願います。

  • 今回のコピペっていう明らかに駄目なことを叩いて百田が一切認めなかったことで「百田信者/非百田信者」の構図がはっきりと浮き彫りになったって点では分断が広がったとも言える気はするな。この記事でも信者の説得を諦めてしまっているように。
    もっというと「話が通じる/通じない」にも捉えられると思うけど困ったことに「通じない」人も同じ日本国籍だし選挙権あるんだよね

      • 「信者/非信者」を明確化したことは分断では全くないと思います。
        私は野党・リベラル寄りの人間ですが、この『日本国紀』騒動以前は
          [左・リベラル]←―→[保守・右]
        という分断の左領域にいたわけです。しかし、右サイドが

          [左・リベラル]←―→{[非信者]/[信者]}右

        のように分かれ、その内実が明確化されました。
        左にいて『日本国紀』批判をする私は、
        同様の批判を行う「非信者」さんたちとは共闘できます。

         {[左・リベラル]&[非信者]}←――→[信者]

        これは分断が広まったというより、分断位置が右にズレただけです。
        もちろん、共闘は 対『日本国紀』での一時的なものにすぎません。
        しかし以前であれば決して深くは知ろうとしなかった右側の人の考えも
        知りたくなった…とまでは言えませんが、ある“興味”が湧いたのです。

        え?なぜこんなマトモな『日本国紀』批判ができる人が
        DAPPIとか保守速報とかのデマ御用達垢をフォローしているの?!
        視野を広く保つため?メチャクチャ謎だ――という類の興味関心です。

        フォローする対象というのはとかく己に心地よいものに偏りがちで、
        特にネット上では、客観的・多角的視野からの情報よりも
        心地よいリンク先ばかりを踏みがちです。
        好みの情報だけに囲まれ嫌いなものは遠ざける、
        その引力と遠心力の強さが、分断と
        歴史戦の金太郎飴状態化固定の原因の一つでしょう。
        ネット社会ネット時代は、世界中の様々な情報に自由にアクセスできるように見えて
        その実、過去の時代より視野が狭まってはいないでしょうか。

        それが、一時的とはいえ本来「遠ざけたくなるもの」に関心を持てたのは私的には事件です。
        引力・遠心力のバランスが少しだけ変わりました。
        デマ御用達アカウントにも何らか見るべきものがあるのかも…。
        非信者さんらは何故そこに・どんな引力を感じているのだろう。

  • コピペ批判が継続し、自らはそのような存在にはならないという人々の自覚が根付くならばいいのですが、実際はそう上手くはいかないのが現実です。
    似たようなスキャンダルとして、過去に唐沢俊一の著書のコピペ・盗作問題がありましたが、あれだけオタク界隈で盛り上がったにも関わらず、現在はどこを向いてもコピペ・冷笑的態度で醜態を晒すポスト唐沢的オタクだらけで虚しくなります。

  • 「社会の分断」が進むことは憂慮すべき事態でしょう。
    然しながら、憂慮するあまり手を拱いて、
    瑕疵を指摘せずにやり過ごすのは羮に懲りて膾を吹くようなもの。
    もし今回そのような状況になっていたら、
    どう考えても百田氏や有本氏による夜郎自大で無反省な自画自賛と、
    『日本国紀』を堂々たる歴史書だと思い込んだ信者たちによる礼賛の嵐、
    ※その礼賛は視野狭窄、他国軽視、ヘイトと背中合わせの危うい物。
    提灯記事や書評が各媒体の紙面に踊り無批判に受容されるという、
    悪夢の様な光景が今頃繰り広げられていたのではないでしょうか。
    考えるだに気が滅入ります。

    初期の段階からSNSやサイト上でエビデンスを示して疑義を呈し、
    信者の方々の手放しの礼賛に“ノイズ”を走らせ、
    一般ユーザーに向けて問題点を可視化したのは意義のある事だと思います。
    ろだん氏を始め皆さんにこの場をお借りしてお礼を申し上げます。
    学問の蓄積や他者への敬意を失した書物が、
    大手を振ってのし歩き我が物顔で書架に鎮座してふてぶてしく開き直る、
    そんな国はとても誇りに思えないよ。まじ勘弁。

  • 虎ノ門ニュースとKAZUYAは百田尚樹にべったりだし、チャンネル桜も有本香に日本国紀や副読本を宣伝させてるから、保守系のネット番組は日本国紀によって化けの皮が剥がされた感じですね。

  • この記事には瞠目した。日本国紀サゲに勤しんでいる人が、これほど知的な記述のできる人とは!正直、驚きを禁じ得ない。話はできる方のようだから敢えて言います。

    ①「解放」と②「侵略」のアポリアを冷静かつ客観的に捉え、かつ、均一的・単一的な結論を導くことは不可能ということに気づいておられる。「解放」の立場だけが歴史修正主義の誹りを受ける理由を「敗戦」に求める知性・・・。

    しかしその同じ知性が、「コピペ」で左右共闘とは(笑)これって全共闘世代が考えそうなアナクロニステイックな発想じゃないですか(笑)日共割ってブントと共闘・・・的なww 「社会の分断を越えていくような検証」にはほど遠いし、むしろ対立を煽ってる。

    ろだんさんのやってる事は意味なくはない作業ではあるけど、事の本質から目をそむけて表層をつついてるだけだし、実体は嫌いなモノの落ち度を見つける昏い快楽でしょ。実証性があるぶん単なる誹りよりはマシというだけで。そこは糊塗して強弁するよりも認めたほうが素直でよいです。

    では「社会の分断を越えていくような検証」とはどんなものか。ろだんさんが団塊ぽいのでその例えで言うと、不毛な戦いから止揚されて「大衆の原像」にシフトした吉本的なものが期待されてるわけです。

    でも、ろだんさんにはムリ。一つには、上述のとおり問題を構造的に捉えられているにもかかわらず方法論がアナクロだし、友/敵構造において対立陣営を先導してるから。もう一つは、日本国紀が大衆に歓迎される理由についての洞察ができてないから。おそらくその感性がない。百田氏と彼のファンを倒すべき「敵」としか見れてないし。そういう地平で止揚はされない。

    コピペのみならず出版前の著者の大言壮語に比して著作の雑さetc.これらもろだんさんの指摘どおりだし有益な指摘です。にも拘わらずも大衆が依然支持をやめないのは何故か。目が昏いから?信者だから?ちがうよ。大衆にはろだんさんが逆立ちしても見えないモノが見えてる。そこが本質なわけ。

    毎日の記事は有料で読めないけど、ろだんさんの書きっぷりから察するに私も辻田さんに同意するとおもう。やはり金太郎飴です。

  • ときどき、「ろだん氏の正体」にかかわるネタ的記事が出てきて面白く拝読していますが、個人的には、現在休止しているWJFというブログとの親和性を感じています。
    文体やところどころに見せるエスプリの利かせ方に類似性を感じていましたが、今回の記事はなかなか核心的なものだと思います。具体的には、いわゆる「歴史認識」の捉え方と、「左右の垣根」を超えるものの模索の態度。
    そんな奴知らねーよ、ということでしたらゴメンなさい。

  • コメントを残す

    メールアドレスの入力は任意です。(公開されることはありません)