【トンデモ】欠史八代説は嘘だった!(竹田恒泰「神話と天皇をタブー視した人々への鎮魂歌」『敗戦後遺症を乗り越えて』育鵬社, 2015)

イデオロギーという色眼鏡

保守論壇の歴史戦を見ると、あまりにイデオロギーが強すぎて冷静さを失っていることが多々あるようです。これまで幾度か取り上げてきた竹田恒泰氏が展開する記紀神話に関する言説もその典型例でしょう。血統正しき竹田氏は、そのルーツの正統性を保証する『古事記』『日本書紀』の歴史性を証明しようと躍起になっていますが、どうも少しズレています。

今回はそんな竹田氏が主張する「欠史八代説批判」における議論のズレを紹介したいと思います。(参考:竹田恒泰「神話と天皇をタブー視した人々への鎮魂歌」『敗戦後遺症を乗り越えて』育鵬社, 2015)

【トンデモ】神武天皇は実在した!(竹田恒泰「神話と天皇をタブー視した人々への鎮魂歌」『敗戦後遺症を乗り越えて』育鵬社, 2015)

2018.11.05

【トンデモ】記紀神話は事実かつ真実、それを批判するのはGHQ政策が原因説(竹田恒泰「神話と天皇をタブー視した人々への鎮魂歌」『敗戦後遺症を乗り越えて』育鵬社, 2015)

2018.11.03

欠史八代説批判

別の記事で何度か紹介しましたが、『古事記』『日本書紀』(記紀)の成立は八世紀とそれほど古くないため、初代・神武天皇不在説のみならず、二代から九代までもがその歴史的信憑性が疑われています。これを「欠史八代説」と言います。

この「欠史八代説」は、皇室の万世一系を著しく害する概念であるため、竹田氏はこれを認めず、次のように反論しています。

同じように、神武天皇から後の八代の天皇についても、不在が主張されてきた(欠史八代説)。しかし、第八代孝元天皇は、長年実在が疑われていたところ、昭和43(1968)年に発見された埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣碑に「意富比垝(オオヒコ)」と書かれていたことから、孝元天皇の息子である大毘古命の実在が確認された。したがって、その父である孝元天皇は実在したと考えられるようになった。

一読して全くおかしな理論です。次の点が問題的です。

  1. 稲荷山古墳出土鉄剣は、それに刻まれた碑文から後471年の製作である。したがってそこに刻まれている人名を根拠にして、六百年以上古い孝元天皇(前273年-前158年)の実在性を語るのは妥当ではない。
  2. 鉄剣に刻まれているのは「孝元天皇」の名ではなく、その長子と伝えられる「オホヒコ」である。さらにこの鉄剣は、当代のヨワケに至る家系図自慢をして、その上祖が七代前のオホヒコであると述べている。もし、オホヒコ孝元天皇であったならば、どうしてこの鉄剣はもう一代遡って「孝元天皇」を上祖としなかったのか? むしろ当代のヨワケ孝元天皇まで遡らなかった理由は、①このオホヒコ孝元天皇の長子のことではなく赤の他人であるか、②後471年の段階で孝元天皇は「存在」しておらず、その後に創作されたか、の何れかが強く示唆される。したがってこの鉄剣の「オホヒコ」の記述は、むしろ記紀の歴史性を否定する。
  3. オホヒコからヨワケまでの八代の家系図が刻まれている。具体的に記せば「(孝元天皇, 前273年-前158年)⇒オホヒコタカリノスクネテヨカリワケタカヒシワケタサキワケハテヒカサヒヨヲワケ(後471年)」である。記紀に従えば孝元天皇は前273年-前158年の人物で、碑文によればこの鉄剣は後471年の製作とされる。よって最大744年/最小629年の間に、八人の代替わりがあったとすれば、一人当たり平均して最大93歳/最小79歳以上生きていなければならず、あまりに高齢過ぎる。したがって、記紀の年代論、もしくはこの家系図は齟齬を起こしている。

この三つの問題いずれも、少し考えれば誰でも気が付くレベルのものです。これに全く気が付かず(あるいは気が付いていても)、鉄剣の碑文を鵜呑みにして「孝元天皇」実在論や「欠史八代説」批判をしてしまうことは、あまりに色眼鏡に囚われた歴史観であると言わざるを得ないでしょう。

おまけ(参考資料)

最後に、稲荷山古墳出土鉄剣の品国と現代語意訳を載せておきます。かなり難解な漢文の為、正確ではない箇所も多々あるかと思いますのでご注意ください。

【翻刻】(表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比(裏)児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

【訳】辛亥の年(471年)7月に記す。私はヲワケの臣です。最も古い先祖の名はオホヒコ、その子〔の名〕はタカリノスクネ、その子の名はテヨカリワケ、その子の名はタカヒシワケ、その子の名はタサキワケ、その子の名はハテヒ、その子の名はカサヒヨ、その子の名がヲワケの臣です。代々、杖刀人の首(護衛官の隊長?)として奉職し今に至っている。ワカタケルノ大王(雄略天皇)の寺、シキの宮にある時、私は天下を治めるのを助けてきた。そこで、このよく鍛え上げた利刀を作らせ、私が大王に仕えてきた由来を記しておく。

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