上智大生靖国神社参拝拒否事件

事件の概要

明治以降、神道が国教的地位を得ると、仏教やキリスト教といった外来宗教は、たびたび非日本的であるとして弾圧されました。特に明治期に起きた廃仏毀釈は仏教界に甚大な被害を与えたことでよく知られます。

ヨーロッパから来たキリスト教も、確かに憲法上では信教の自由が認められていながらも、やはり外来的な異分子として弾圧を受けました。その代表例が本記事で紹介する「上智大生靖国神社参拝拒否事件」です。

事の起こりは、1932年にカトリックの上智大学生が、信教を理由にして靖国参拝を拒否したことにあります。この参拝拒否は非国体的であるとして軍部やマスコミから徹底的に叩かれ、上智大学の存続にかかわる大騒動に発展しました。この騒動を鎮めるために、上智大学ならびにカトリック教会は、「神社参拝は忠君愛国の表現に過ぎないのであって、カトリック信者が神社参拝をしても問題が無い」という見解を提示しました。この騒動と並行して、カトリック教会がいかに国体に随従し翼賛するものであるかを主張する書物が刊行されました(田口芳五郎『カトリック的国家観』カトリック中央出版部, 1932)。したがってカトリック教会は、この靖国参拝拒否事件を契機として体制に恭順し、全体主義の中にいよいよ取り込まれたと評価できるでしょう。この後、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)が起こると、カトリック教会は大東亜共栄圏建設に進んで協力することになります。

現代から何を問えるか

このように「上智大生靖国神社参拝拒否事件」は、近代日本の権力と宗教を考察する上で、大変興味深い事件であると言えます。西山俊彦『カトリック教会の戦争責任』(サンパウロ, 2000)は、この騒動におけるカトリック教会の選択を大変低く評価し、「物理的安全のために信仰者の魂を売り渡し、神社参拝を含む天皇制支配に屈服し」たと述べています。

しかしこの評価は、現代人の「あと出しじゃんけん」によるもので、仮にもし日本が戦争に勝っていたならば別の評価で有り得たでしょう。多くの伝統宗教が戦後になって突然に「非戦」を叫びだしたのは、現代的価値観に基づく聖典解釈なのではないでしょうか。そこで本記事では、この問題を考察する準備段階として、事件の経過を時間順にまとめたいと思います。

事件の経過

年月日 内容
1932(昭和7)年5月?日 上智大生数名がホフマン学長に靖国参拝の是非について問い、「カトリック信者としてそこへは行かないほうがよい」と回答を受ける。
 同年5月5日 配属将校であった北原一視大佐が、上智大学予科二年生を靖国神社に引率したところ、カトリック信者数名(二、三名)が参拝しなかった。北原一視大佐は、直ちにこの旨を陸軍省に報告。
 同年5月7日 北原一視大佐は、本件についてホフマン学長と話し合う。
  陸軍省が文科省に、上智大学は国家に有害である旨を報告。陸軍省と文科省が交渉を重ね、陸軍省は文科省に「事件は落着」したと報告する。
 同年6月14日 文科省から上智大学に「陸軍省が配属将校の引揚を図っている」と通知。
イエズス会ロス司教は、シャンボン東京大司教に神社参拝の是非を問う。シャンボン師は口頭で一応許可した。ホフマン師は直ちに本件を陸軍省に報告する。
 同年7月6日 ホフマン師が、靖国参拝許可の件を、カトリック信者の学生たちには口頭で、陸軍省には書面にて報告。しかし配属将校・北原一視大佐は陸軍省に、「自分も学生もそのような通知を受けていない」と報告。
  陸軍省と文科省が話し合いを重ねる。
 同年9月22日 シャンボン師が、神社参拝の性格(宗教性)について文科省に問い合わせる。
 同年9月30日 文科省より、神社参拝での敬礼は愛国心と忠誠とを現すものに他ならない(宗教行為ではないと解釈)と回答を得る。
 同年10月1日 報知新聞が「靖国神社礼拝を学生が拒否」と報道。(資料
 同年10月14日 読売新聞が「「軍教精神に背く」と配属将校引揚げ決意」と報道。(資料
 同年10月15日 学内で日本人教授らが対策会議。
 同年10月16日 学部長と幹事が陸軍次官を訪問するも、成果なし。
 同年10月18日 学生たちが協議。日本人教授らが再度会議。新聞に弁明の声明を掲載すること、ならびに批判に対して反論するのではなく黙殺する方針をとることを決議。
 同年10月21日 東京朝日新聞において上智大学の声明文「謹告」が掲載され、これまで報道された記事には事実に相反する点が幾多ある旨が述べられる。
 同年10月22日 東京日日新聞に上智大学の声明文「謹告」が掲載される。
 同年11月9日 シャンボン大司教が、書簡の中で「重大な理由がある場合には消極的参加と敬礼は許容されなければならない」と述べる。
 同年12月中 各種新聞が上智大学を非難する記事を掲載する。配属将校・北原一視大佐が青森に転属となる。しかし上智大学に、新たな配属将校が任命されることは無かった。
1933(昭和8)年1月30日 上智大学内での会議で、「靖国参拝は賞讃されるべきもの」という文書を認めるように提案が出る。
 同年2月4日 愛国団体が陸軍省に非国民的な学校の弾圧を要請する。
 同年2月6日 忠君愛国のための神社参拝を進んで行うという趣旨の書簡を、上智大学が文部大臣あてに送付する。
 同年2月10日 東京日日新聞に、靖国問題で揉めているため上智大学卒業生の就職活動が難航している旨が掲載される。
上智大学関係者が陸軍省に訪問し、新たな配属将校の派遣を懇請する。
 同年2月17日 陸軍省が上智大学職員数名の解雇を要請する。
 同年3月1日 学生と神父四名が神社を参拝する。
 同年3月19日 各種新聞が配属将校の派遣はのぞみが薄い旨を報道する。
 同年6月初旬 丹羽孝三幹事の解職が陸軍省側を満足させるために不可欠であることが知らせられる。
 同年6月16日 上記内容が竹田中将の発言によって裏付けられる。
 同年6月下旬 丹羽孝三幹事が退職を願い出て受理される。
 同年11月13日 配属将校の任命があると知らせられる。
 同年11月15日 公式に配属将校の任命が布告される。
 同年12月15日 配属将校が派遣される。また上智大学は主として次の六条件が義務付けられた。
 ①すべての学生が神社に参拝すること。
 ②国民的な教育を保証すること。
 ③国家祝日に祝賀式典を行うこと。
 ④修身(道徳)の科目は、非キリスト教徒の日本人教授が担当すること。
 ⑤大学は学内でカトリックの宣伝を行わないこと。
 ⑥丹羽孝三幹事を解雇すること。

参考資料:上智大学史資料集編纂委員会『上智大学史資料集』第三巻, 上智大学, 1985;西山俊彦『カトリック教会の戦争責任』サンパウロ, 2000; Nakai, K. W. “Coming to Terms with ‘Reverence at Shrines’: The 1932 Sophia University – Yasukuni Shrine Incident,” Kami Ways in Nationalist Territory: Shinto Studies in Prewar Japan and the West, Vienna: Austrian Academy of Sciences, 2013, pp. 109-153.

靖国参拝を可能にするカトリックの理論(田口芳五郎『カトリック的国家観:神社参拝問題を繞りて』改訂増補第3版, カトリック中央出版部, 1933)

2018.10.17

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