現代文学は歴史か? 保守論壇にみる「通史」の歴史戦

はじめに

2017年にヘイドン・ホワイトの『メタヒストリー:一九世紀ヨーロッパにおける歴史的想像力』(作品社)が、2018年にイヴァン・ジャブロンカの『歴史は現代文学である:社会科学のためのマニフェスト』(名古屋大学出版会)が翻訳出版されました。特に後者はポストモダニズムの歴史観を端的に示したタイトルです。

これらポストモダニズムの図書というのは抽象的で何が書いてあるのか今一つ解りにくいのですが、誤解を恐れずそれを要約するならば、「我々が歴史と呼ぶものは、実際にあった事実を直截に伝えるものではなく、解釈や主観が入り混じって語られたものである」ということでしょうか。

これは考えてみれば当然のことです。歴史の教科書にしろ研究書にしろ、史料をもとに書き手の解釈が入らないというのは不可能です。また、その史料自体が歴史的にあった事実を主観抜きに伝えているわけではないからです。

たとえば、中国の正史は、勝者となった王朝が編纂するもので、当然その王朝に都合のよい内容で編纂されます。史料自体が既に主観の塊ですし、そこから客観を導き出す作業自体が、研究者の主観とも評価できます。ある歴史家が膨大な史料から客観的な結論を導き出したとしても、「それが客観的である」という評価は同時代のいわば多数決によって決まるのであり、それが客観的であることを客観的に証明することは出来ません。

もちろん歴史家から言わせれば「自分の描いた歴史が100%の事実ではないことくらい、一々指摘されなくても解っている。与えられた史料のなかで、可能な限りの蓋然的理解を導くことが歴史家の仕事」と言うことになるでしょうか。(大戸千之『歴史と事実:ポストモダンの歴史学批判をこえて』京都大学学術出版会, 2012)

歴史・事実・文学

しかし正統的な歴史家たちの反論は置いておいて、確かにポストモダニストたちが「歴史は文学である」と声高に叫んだことで、歴史と事実の境界線がぼやけたことも「事実」であると思います。

さらにこの頃の保守論壇の歴史戦を見ていると、「歴史は文学である」を逆手にとった「文学が歴史であってもよい」という流れが顕著に確認できると思います。特に「通史」というスタイルで日本史を描こうとする傾向があり、たとえば渡部昇一(英文学)はこの先駆けでしょう。

  • 渡部昇一『[増補]決定版・日本史』扶桑社, 2014
  • 渡部昇一『日本の歴史』全7巻, ワック, 2016.

もちろん保守の方は「何を言っているんだ。渡部先生の書いた歴史こそ事実である」と仰るかもしれません。しかし渡部氏以下、これまでの保守史観というものは、保守以外の世界ではイデオロギー的な「文学」でしかなく、反論すら相手にすらされていない状況でした。

しかし昨今の保守論客による歴史戦(修史事業)の勢い、そしてその支持者の増大には驚くべきものがあります。保守史観が日本の公式見解になる日が本当に来るかもしれないと思わせるほどです。たとえ客観的であっても無味乾燥とした歴史よりも、心を揺り動かす民族のイデオロギーに基づいた大河ドラマを人々は欲するかもしれません。特に今年になってから、「物語」「叙事詩」を名乗る「歴史」の本が二つほど登場しました。

  • 田中英道 『日本国史』育鵬社, 2018.
  • 百田尚樹『日本国紀』幻冬舎, 2018.

また竹田恒泰氏(憲法学)も、自身の歴史観に基づいた教科書を制作中らしく、まさに保守論壇は「通史」を修正する歴史戦に入ったと言えます。

これら歴史戦には、積極的に(自身のイデオロギーに基づいた)文学を歴史と位置づける傾向が極めて強くあります。かかる点でポストモダン的です。なんと百田尚樹氏(作家)に至っては、物語(story)と歴史(history)の語源まで持ち出して両者が同一であると、ポストモダニスト顔負けの理論を展開しています。

とくに百田尚樹氏の『日本国紀』(幻冬舎, 2018)は、アマゾンのランキング一位が長く続いており、話題の一書です。

この一書をどのように読み評価されるのかは、今後の保守論壇の歴史戦を占ううえで重要な試金石になるような気がしてなりません。

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