【日本国紀】「こっそり改版」の問題点

こっそり改版

昨日、百田尚樹『日本国紀』において「改版」の事実が明示されていないにも関わらず、その内容に重大な修正が加えらえていたことが明らかになりました(関連記事)。これは書籍の信頼を損なわしめるのみならず、読者をも裏切る行為です。しかしこれを過小視する向きもあるため、本記事ではこの問題を扱っていきたいと思います。

通常、書籍の裏書きには「第~版」「第~刷」といった表記があります。ウィキペディアの説明を拝借すれば「同じ版のなかで、印刷時期が異なるものを刷と呼」びます。同一の「版」であれば「刷」が異なっても内容は同一であり、「版」が更新(つまり改版)されると誤植などの修正を含めて内容に微調整が加わる場合が多いです。言い方を変えれば「版」が異なると印刷内容も異なるという意味です。

このルールは法律などとして明文化されているわけではありません。しかしほとんどの出版社・出版物がこのルールに従っています。そして、このルールが守られているからこそ、建設的な議論が可能となります。同一の「版」なのに内容が異なっていては議論に混乱が起こるからです。

やましい時に「改版」を明示せずに内容までも修正してしまう傾向

このような「版」「刷」に関する出版業界の標準理解は実は江戸時代から既にあります。にもかかわらず、時としてそれが守られず「改版」したことを示さないまま、内容の改変が行われてしまうことがしばしば起こります。これは何か「やましい」ことがある時に見られる現象です。

たとえば、火野葦平の従軍記録『麦と兵隊』(改造社, 1938)では、七刷と八刷の間で「改版」の断り書きがないまま記述の削除が行われています。

この経緯についてT-2850氏は次のように説明しています。

  1. 南京で日本軍への悪評が流れる
  2. 懸念した情報部が火野をスカウト
  3. 火野『麦と兵隊』執筆
  4. 情報部内閲からのゴーサイン
  5. 雑誌「改造」で発表、翌月初刊
  6. 八刷で(恐らく)改造社が自主規制

よって今回の『日本国紀』の「こっそり改版」も、これと同様に何か「やましい」「都合の悪い」何かがあったと推測されます。たとえば、今回こっそり修正された「男系の説明錯誤」は、保守論壇が犯したミスとしては信じられないようなレベルのものです。このような恥ずかしいミスがあったことを隠したかったのでしょう。

「こっそり改版」の問題点:すでに買った人のみならず、これから買う人へも被害

また「こっそり改版」は、このような道義的問題のみならず、読者に直接的な不利益を与えかねない行為です。

現在、『日本国紀』の四刷・五刷において「男系の説明」を含め幾つかの錯誤的記述が修正されたと報告されています。しかし、その奥付を読んでも「改版」の語は見られません。幻冬舎は正誤表の発表すらしていません。ですから第1刷も第5刷も同内容であると誤解してしまう恐れがあります。

これは第1刷を購入してしまった読者からすれば、重大な錯誤が残された「不良品」を掴まされた気分です。刊行直前に百田尚樹氏は、ツイッター上で「『日本国紀』に書かれていることはすべて事実だからだ」と豪語してにもかかわらず、刊行後一月も過ぎていないのに重大な錯誤のあることに気付き、それを「こっそり改版」して直して開き直っているというのは一体なんなのか。

そして、刊行後一月も経たないうちに刷を重ねたため第1刷から第5刷までが同じ書店に並んでいるという異常事態が起っています。つまり書店に並べられている『日本国紀』は、実は刷の違いよってその内容にも差異があるのです。

この状況を知らず古い刷の『日本国紀』を購入してしまったならば、錯誤的記述が残されたものを買わされてしまうという被害を負ってしまうことになります。

まとめ

誰しも誤りを犯すものですから、それを認め、謝罪することは何等恥じることではありません。にもかかわらず、相当量の修正を加えて実質的な「改版」しているにもかかわらず、それを明示しないことは読者に対する裏切り行為でしかないように思えます。

また、刊行後一月も経たないうちに問題個所の指摘が頻出し何度も「改版」していることは、そもそも第1刷が「不良品」であったことを意味します。不良品を掴まされた読者は騙された気分でしょう。私も騙された気分です。「『日本国紀』に書かれていることはすべて事実だからだ」と嘯いてた百田氏の発言は一体何だったんでしょうか。幻冬舎の誠実な対応が求められるでしょう。

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4 件のコメント

  • 日本国紀出版以降、ほぼ毎日覗かせていただいています。
    ただ、この記事につきましては違和感が多く、コメントさせていただきます。
    出版物において、刷によって誤字や内容の修正が入ることはさほど珍しくはないのではないでしょうか。かつて大学でゼミをやっていたとき、私が買った本だけ「刷」が異なり、ところどころ言葉遣いが違うことがありました。
    学術書ではないところでは、かつてネットでも話題になった『リアル鬼ごっこ』の伝説的な珍表現が、後に修正されていき現在手に入るものではなくなってしまっていると言われています。
    「版」が違うというのは、データを大幅に更新した、とか、一章新たに付け加えたとか、そのレベルの違いをさすものであり、誤字脱字の修正や言い回しの修正程度ではわざわざ「新版」とまではしないのではないでしょうか。
    もちろん、そのような慣習がフェアではない、あるいは、『日本国紀』の修正はそのレベルのものではないとの指摘はありうるかと思います。
    ただ、「明示せずに修正をおこない、版も変えなかった」ということは、『日本国紀』が抱える他の問題に比べると、それこそ「出版界の暗黙の慣習」ですまされるような、あるいは、百田支持者から、「だったら批判者のこの本も誤字の修正が明示されずにおこなわれている!!」と揚げ足をとられるようなことになるではとも思います。
    長文、失礼いたしました。今後の「追求」も楽しみにしています。

    • コメントありがとうございます。確かにInDesiginによるデータ入稿が主流になった現在では「刷」でもかなりの修正が入るようになったことは知っております。しかし「刷」による修正は基本的にタイポであることが慣例のように思います。特に内容に関わる部分は、㈠「改版」を表示したり、㈡修正を加えた旨をどこかに記したり、㈢正誤表をどこかで公開したりすることが出版社としての「良心」ではないかと考えています。そのいずれもしていないことが焦点になるかと思います(さらに電話による問い合わせにも答えない)。
      なお、私個人の感想としては「新版」と「改版」はやや意味が違うように思います。「新版」のほうがより修正箇所が多いよな、そんな印象を持ちます。ただしこれはルールではありません。あくまで出版社の「良心」の問題です。そして私が本記事で訴えたいことも、幻冬舎(および百田氏サイド)が「良心」に悖る行為をしているということです。
      これまで『日本国紀』をめぐっては、一事が万事でなにからなにまで倫理観のかけらも感じられない事案が続出しています。今回の「こっそり改版」もそれを象徴する一つだと思いますし、だからこそ皆さんに関心をもらっているのだと思います。
      長文のコメントありがとうございました。また是非気が付いたことがございましたらご意見いただければ幸甚です。

  • ずるいし卑怯だ。私は今の日本が置かれた状況に、百田氏が作家特有の比喩で警鐘を鳴らす姿勢を本当に興味深く拝見してきた。しかし今回のコピペ騒動で正直本当に失望した。百田氏は批判する人間を左翼のアンチだとレッテル貼りするが、私のような人間もそこそこいるんじゃないかと勝手に考えてる。私は購入してないが、初版を予約して購入したファンでも、疑問を抱き始めた人はいるのでは?

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