靖国参拝を可能にするカトリックの理論(田口芳五郎『カトリック的国家観:神社参拝問題を繞りて』改訂増補第3版, カトリック中央出版部, 1933)

上智大生靖国神社参拝拒否事件

毎年終戦記念日が近づくと、靖国参拝の是非がテレビやマスコミなどで議論されます。苦い敗戦を経験した現代でこそ靖国参拝を公然と否定することができますが、戦前・戦中のファシズム下でそれを否定することは非常に困難なことでした。事実、1932年から1933年にかけて起きた「上智大生靖国神社参拝拒否事件」と呼ばれる事件では、上智大学生がカトリック信仰を理由に軍部から圧力を受け、マスコミからは非国民的と非難され、存亡の危機に立たされました。この事件の詳細な経緯を知りたい方は以下のリンクをご覧ください。

上智大生靖国神社参拝拒否事件

2018.10.17

カトリック教会の妥協

このように靖国参拝を拒否したが故に上智大学は、非国民大学の烙印を押され、卒業生は就職口を失い、学生数も激減するという大打撃を受けました。そのため、この危機を乗り越えるために、上智大学(およびカトリック教会)は、靖国参拝がカトリック信仰と矛盾しないことを強調し、それを纏めて一冊の本を刊行しました。それが、田口芳五郎『カトリック的国家観――神社参拝問題を繞りて』(カトリック中央出版部, 初版: 1932, 改訂増補版: 1933)です。

本記事では、この1933年刊行の改訂増補版を用いながら、「如何にしてカトリック教会は靖国参拝を認めたのか」という理論構造を考察したいと思います。

靖国参拝拒否の理由

まず、「なぜカトリック教会では、当初、靖国参拝が認められなかったのか?」という問題を考察したいと思います。この回答は単純で、十戒の第一が「わたしのほかに神があってはならない」だからです。『カトリック的国家観』においても次のように説かれています。

我等カトリック者は、天主の十戒中の第一戒に示され、命ぜられている如く、自然法及び神法により、全能全善の造物主たる唯一神以外のものに、礼拝的宗教行為をなす能はざるのである。

  田口芳五郎 『カトリック的国家観』 改訂増補第3版, 1933, p. 145(私蔵本)

つまり、「神社に祀られている祭神に礼拝することは、唯一神以外のものに礼拝的宗教行為をなすことになる。よって靖国参拝は許されない」というのが当初のカトリック教会の見解でした。

「礼拝」と「敬礼」

このような靖国参拝拒否の見解を転換させるために、『カトリック的国家観』は、同じ儀礼的行為であっても、それには「礼拝」と「敬礼」の別という見解を提示します。

然し、我等カトリック者は、「礼拝」と「敬礼」との区別を知っている。「礼拝」とは、造物主が被造物及び其の所有物の上に絶対権を有しているいるしるしに被造物がなす最上の敬礼である。普通云うところの「敬礼」は被造物に適用せられるのである。しかし、或特別なる環境に於いては、「礼拝」なるか、或ひは、単なる「敬礼」なるか判断し得ざる時が往々ある。

  田口芳五郎 『カトリック的国家観』 改訂増補第3版, 1933, p. 144(私蔵本)

すなわち、「礼拝」は神に対する宗教的行為であるのに対して、「敬礼」はそれ以外の者に対する非宗教的行為であるというのです。 この事件が起こるやカトリック教会は神道が宗教に該当するかどうかを文科省に問い合わせ、「国体カ要求セラルゝ敬礼ハ愛国心と忠誠トヲ現ハス」という回答を得ていました(『上智大学史資料集』第三巻, p. 74, p. 80)。 つまり、神道は「国家の祭祀」であって「宗教」ではないから、神社参拝は「礼拝」ではなく「敬礼」に該当するから問題なしという理論です。

しかし、神社参拝が「礼拝」ではなく「敬礼」であり、加えて全くの非宗教行為であると主張することは、あまりにもスコラ的であり一般社会に対してあまり説得力がありませんでした。事実、上記に引用した『カトリック的国家観』にも、この両者が判別しずらいことがある旨が認められています。また、この事件を取り上げた報知新聞(1932年10月1日付)は、カトリック教会のこの解釈学的回答を「責任転嫁」と決めつけ厳しく非難しました。

『カトリック的国家観』に説かれる靖国参拝の理論

このような問題と批判を受けてカトリック教会は、宗教的な「礼拝」であっても、非宗教的な「敬礼」 であっても神社参拝が可能になる見解を提示しなければならなくなりました。そこで『カトリック的国家観』では、最終的に、重大な理由があり、カトリック信仰を失わなければ、宗教的儀式において「礼拝」をなしてもそれは宗教的行為をなすことにはならず黙認されると結論しています。

カトリック信者たるものは、非カトリック的宗教儀式には絶対に関与することは出来ぬ、即ち、かかる宗教的行為を進んでなし、又は、すすめられたり、強要せられたりする時にも、之を受容することは出来ないのである。然し、重大なる理由ある時(かうした重大な理由の存否に疑ある時には、司教の裁量を仰ぐべきである)、自己の信仰の顛倒を招来し、又上述せる如き躓を生起せしむる危険なき限り、忠君愛国心の表白或ひは礼義的理由などのために、かうした宗教的儀式にも、何等宗教的行為をなすことなく、受身的に、或ひは物的に、参列することは黙許せられているのである。この原理は、憲法の信教自由の保障と相俟って、カトリック学生、生徒、児童が、国体として、神社の純宗教的儀式に参列せしめられる時に適用せらるべきである。この時の受身的参列はただ他宗教性と共に忠誠と愛国心とを発現するを意味するのである。

  田口芳五郎 『カトリック的国家観』 改訂増補第3版, 1933, p. 147(私蔵本)

そして言わずもがな「敬礼」は非宗教的なものとしてそのまま認められます。

斯くの如き意味に於いて、又、学生、生徒、児童等が国体として神社に何等宗教的儀式なき時に要求せらるる敬礼は、即ち、愛国的行為であり、何等宗教的意味を有せぬものである。p. 147

 田口芳五郎 『カトリック的国家観』 改訂増補第3版, 1933, p. 147(私蔵本)

まとめ

このように、「礼拝」と「敬礼」の区別は形骸化され、如何なる場合であっても神社参拝・靖国参拝が容認される理論が完成したことになります。これをまとめれば次のようになりましょう。

  • 神社・靖国への「礼拝」=受動的なら神社の純宗教的儀式に参加しても、単なる忠誠愛国心の発現であるからOK。
  • 神社・靖国への「敬礼」=非宗教的儀式なので、問題なくOK。

このような国家体制への随従は、 西山俊彦『カトリック教会の戦争責任』(サンパウロ, 2000) などが力説しているように、現在では大変低く評価されています。しかし、複雑な時代背景の中でカトリック教会を存続させるための方便として捉えるならば、また違う評価もあり得るのではないでしょうか。

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