『国民の歴史』と『日本国紀』
いまから20年ほど前、「新しい歴史教科書をつくる会」(通称:つくる会)の初代会長を務めた西尾幹二氏は、『国民の歴史』という本を書いてベストセラーになりました。今でいう百田尚樹『日本国紀』と同じようなものかもしれません。
そんな西尾幹二氏の『日本国紀』の公告内書評が、2019年1月23日の読売新聞朝刊に次のように載っていました。

書き起こすと次のようになります。
私と百田さんとは方法論が違っていて、私は文明の構造を問題にして固有名詞を極力消していますが、百田さんは知られれていない小さな人物にまで目を配る小説家らしい着眼点です。ここの人物像を描いているのは私にはできなかったことで、素晴らしい。
今地球では新しい局面に入っている。今ではグローバリズムとリベラリズムが大きな顔をしていましたが、各国はその偽善と不正直に気づき始めました。百田さんが現代の新しい波として“ジャパン・ファースト”を打ち出してくれるのは、グローバリズムを一掃し、リベラリズムのあがきに止めを刺す仕事として歓迎します。
――評論家 西尾幹二(『国民の歴史』著者)
2019.1.23 読売新聞朝刊
一応褒めてはいるようですが、具体性に欠ける内容ですね(笑)
実はよく読んでいなかったし、重要なテーマを捉えていない
本ブログで何度も取り上げてきましたが、『日本国紀』の古代史部分は、記紀神話を軽んじて、中国正史の魏志倭人伝を重視するななど、保守歴史戦の常道から大きく外れる反日思想の塊です。
一方、西尾幹二『国民の歴史』では、このような歴史観を、「戦後後遺症を今なお癒せないこの国の知性の歪み」と表現して厳しく批判しています。
よって西尾氏が、本心で『日本国紀』を称賛しているはずが無く、先ほどの書評はリップサービスだろうなと思っていたら、案の定その通りでした。文春オンラインの辻田真佐憲氏と西尾幹二氏の対談には次のようにあります。
――そこでお伺いしたいのは、現在ベストセラーになっている百田尚樹さんの『日本国紀』のことです。この本は「歴史は物語だから、自由自在に書いていい」との態度で書かれているとして一部で批判もされています。
平成の大ベストセラー『国民の歴史』の西尾幹二が語る「保守と愛国物語への違和感」
西尾 全部丁寧に読んだわけではありませんから、正確なことは申せません。ただざっと見て、古代史における「日本と中国の文明の戦い」という観点に踏み込んでいないように思いました。現在の日本史学会の主張は「中国古代文明が日本に文明の雛形を与えた。日本は必死にそれを学んだ。でも及ばなかった」という、日本は永遠に文明上の後追い国家だという劣等感を持った歴史像です。私はそこを打破した歴史を語らなければならないと考えました。
つまり歴史学会の固定観念を一掃しなければならない、と考えていますが、百田さんは日本を誇らしげに語ってはいるけれど、この重要な論点をテーマに据えていないですね。これは意外でした。
なんと西尾氏は『日本国紀』をまともに読んでいないにのに書評を寄せていたようです(笑)
そして古代史の部分について百田氏は重要なテーマを捉えていないとの御発言。まぁ保守なら当然でしょか。
なお西尾幹二氏も『国民の歴史』のなかで、百田尚樹氏よろしく剽窃をしています。保守論壇はそもそも歴史を描き出すだけの素地がないので、こう言う事件が多々起きてしまうのですね。
新聞の書評ではありません。
書評スタイルをした幻冬舎の広告です。
ですので読売新聞の編集局は関与していません。
表現が悪かったですね。存じています。
論壇netは違う意見を認められないようです。だからこのような記事になります。
意見が違って当然というのがどうして分からないのでしょうか?
百田氏は「戦後史を書きたくて通史を書いたようなもの」と口を滑らせていましたから、古代がおざなりになるのも当然かなという気もします。それなら近代〜戦後だけを書けばよかったんじゃないのと私は思いましたが。
エア書評だったのか。何から何まで空虚だなあ。まるでゴシップ。
芋づる方式で櫻井よしこ氏の書評も怪しく見えてきた。
穿ち過ぎだと思いたいw
西尾氏、幹二悪いよね(ある意味誤変換)。
新聞(の各種記載事項)一つ読むにも、リテラシーが必要な昨今です。
取り分け、『ベストセラーばく進中!大反響65万部!』等という売り文句を目にしたら、「一般方向が正しければ良いが」「耳を覆いて鐘を盗むのも、傍から見れば大反響だ」といった、冷静な考察を加えたい物です。