【トンデモ】保守による「特攻隊」の小中学校教育(長野藤夫「恥ずかしいと思わんのか」『現代教育科学』49(8), 2006)

「特攻隊員」の死を考える:帰らぬ命ありて平和あり

別記事で紹介した安住順一「日本は、大東亜戦争で人類最高のよいことをしたのだ」という名論文を収載した『現代教育科学』2006年8月号には、「「特攻隊員」の死を考える」というコーナーがあり、三人の現役小中学校教員が、実際の教育現場でどのように特攻隊が教材にされているのかが紹介されています。

このコーナーの副題には「帰らぬ命ありて平和あり」とあり、読む前から三論文の内容が想像できてしまうわけですが、そのなかでも長野藤夫「恥ずかしいとは思わんのか」が圧倒的なインパクトを放っていましたので、本記事ではその内容を紹介していきたいと思います。

恥ずかしいとは思わんのか。

論文「恥ずかしいとは思わんのか」を執筆された長野藤夫先生は、中学校の教頭という要職を務められています。この超絶上から目線のタイトルからも察することができるように、特攻隊の生き様と、現代人の生き様とを比較して、現代人に「恥ずかしいとは思わんのか」とその生き方の修正を迫る内容となっています。次のように主張します。

六〇年前の若者の「命」と今の若者の「命」は果たして同じか。
「命」の輝きとその受け止め方は、果たして同じか。
ホームレス殺人をためらいなくやってしまう若者と、祖国のために自らの命を投げ打った若者である。同じであると考えるのは無理がある。

これに続き長野氏は、「命の重さに変わりはない」などの言葉が虚しく、単なる綺麗事、ただの建前に過ぎないと断定し、次のように問いかけます。

必然的に、次の問いが生まれてくる。

恥ずかしいとは思わんのか。

これは自分自身に向けた問いでもある。

…。

ここで比較されている対象が「ホームレス殺人をためらいなくやってしまう若者」と「祖国のために自らの命を投げ打った若者」であり、どうしてこの比較から現代の我々が自らを「恥ずかしい」と省察しなければならないのかよく解りません。六十年前だって殺人を犯してしまった若者はいたでしょうし、現代にだって祖国ために死ねる人もいるはずです。

このような無理やりな比較から、主語と述語の範囲を拡大させて、(筆者の思想信条に合致した)一般論を導き出すやり方は、特に近年、保守論客に多く見られる傾向です。もしやこの一文は、意味不明な比較検討をしてしまった自身に対して「恥ずかしいとは思わんのか」と自嘲している文脈なのでしょうか。

命の価値

これに続いて長野先生は「特攻隊は無駄死に、犬死にだ」という見解を批判的に言及し、特攻隊員の遺書などを読みつつ、「戦後の繁栄の礎は、彼らの犠牲の上に築かれたといっても過言ではないのだ」と言葉を捧げます。このような理解も保守の常套句であり、何ら驚くものはありません。しかし、もし彼らが死なずに生きて国家・社会に貢献していれば、もっと繁栄していたかもしれないという可能性は何故かいつも見落とされています。そして最後に次のようにまとめます。

隊員の命は「美」以外の何ものでもない。
「特攻隊は無駄死に、犬死にだ」と考える方々は、彼らの命と己が命を比べてみるといい。己が命のあまりの軽さに、愕然とせざるを得まい。

命の軽重をこのように安易に論じてしまうことにこそ、最大の問題があると思います。「一人一人の命はかけがえのない価値があったにもかかわらず、統計学的に見たならば特攻は無駄死にであった」という埋められないギャップを、一方の立場からだけで埋めてしまうことことは危険ではないでしょうか。

また、この長野藤夫先生の別の論考について下記リンクを参照。

【トンデモ】保守による「命」の授業(長野藤夫「命は他人事ではない:自尊心が当事者性を生み出す」『中学生に「命」の輝きを教える』明治図書, 2004)

2018.10.19

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