『日本国紀』における「無断転載」の総覧——その問題点の考察

はじめに

本記事では、これまで明らかになっている『日本国紀』の無断転載箇所を総覧としてまとめました。

ツイッターを中心にコピペ箇所探索という知的遊戯に邁進された諸氏に衷心より感謝もうしあげます。

総覧に入る前に、『日本国紀』の「無断転載」問題に関する私見を述べさせていただきたいと思います。

『日本国紀』の「無断転載」問題

『日本国紀』は発売以来、Wikipediaや新聞記事、書籍などからのコピペ改変跡が相次いで発表されました。その分量は、およそ『日本国紀』の3%にも及びます。

これを少ないと見る向き

多いか少ないかは主観の問題です。

しかし、このレベルのコピペが発覚したならば、大学レポートでも確実に落第です。

また常識ある出版社では、これ以下の無断転載量でも、回収・絶版などの対応をしています。

【日本国紀】コピペが発覚した場合の他社の対応【ミスチル、幸福の科学、司馬遼太郎らをめぐる事案を通して】

2018年11月28日

歴史的事実ならば似ている

この見解は一見妥当ですが、正しくありません。

『日本国紀』の場合には、Wikiepdiaや先行翻訳とプロットまで酷似しています。また創作性のある翻訳文からの無断転載もあります。これらは歴史的事実の一致を超えるものです。

また、この百田氏の見解は、『日本国紀』がWikipediaを超えないものであると自白しているようなものです。

【日本コピペ紀】「歴史的事実」ならば逐語的に一致するのか【仁徳天皇・フロイス日本史の諸訳比較】

2018年11月28日

著作権者から訴えたあったら対応すればいい

これを幻冬舎の見城徹社長もRTしていることは、私にとって非常に残念です。出版倫理の崩壊でしょう。

このような見解は「泥棒をして商売してもいい。ばれてもいい。訴えられなければOK」と言っているようなものです。「我々は何者なのか?」を問う『日本国紀』において、日本人は「盗みをしない」と自画自賛されています。百田氏も見城氏も、彼らが定義する「日本人」ではないようです。

まさに、このような剽窃を許すことこそが「知識の流通を妨げる負の行為」であることに気付いてほしいと思います。

仁徳天皇①

①『日本国紀』p. 53(第1刷)②真木嘉裕「聖帝・仁徳天皇 民のかまどは賑いにけり」大阪新聞(1991.12)③宇治谷孟『日本書紀(上)』岩波書店, 1988.
仁徳天皇四年、仁徳天皇が難波高津宮から遠くを見てこう言った。仁徳天皇四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて四年春二月六日、群臣に詔して、「高殿に登って遥かにながめると、
「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうら、地方は一層ひどいことろう」「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことあろう」と仰せられ人家のがあたりに見られない。これは人たちが貧しくて、炊ぐ人がないのだろう。昔、聖王の御世には、人民は君の徳をたたえる声をあげ、家々では平和を喜ぶ歌声があったという。いま自分が政について三年たったが、ほめたたえる声も起こらず、炊煙はまばらになっている。これは五穀実らず百姓が窮乏しているのである。の内ですらこの様子だから、都の外の遠い国ではどんなであろうか」といわれた。
そして「向こう三年、税を免ず」いう詔をした。それ以降、仁徳天皇は衣を新調ず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理しなかった「向こう三年、税を免ず」(みことのり)されました。それからというものは、天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理も遊ばされず、星の光が破れた隙間から見えるという有様にも堪え忍び給いました三月二十一日、詔して「今後三年間すべて課をやめ、人民の苦しみを柔げよう」といわれた。この日から御や履物は破れるまで使用され、御食物は腐らなければ捨てられず、心をそぎへらし志をつつまやかにして、民の負担を減らされた。殿のはこわれでも作らず、屋根のはくずれても葺かず、雨風が漏れて御衣を濡らしたり、影が室内からられる程であった。
三年が経ち、ある日、天皇高台に出と、炊煙が盛んに立つのを見て、かたわらの皇后にこう言った三年がたって、天皇高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申されましたこの後天候も穏やかに、五穀豊穣が続き、三年の聞に人民は潤ってきて、徳をほめる声も起こり、炊煙も賑やかになってきた。
七年夏四月一目、天皇が高殿に登って一望されると、人家の煙は盛んに上っていた。皇后に語られ、
「朕はすでに富んだ。ばしいことだ」
「朕はすでに富んだ。ばしいことだ」自分はもう富んできた。これなら心配はないといわれた。
すると皇后は言った。
「宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」皇后なんで富んできたといえるのでしょうといわれると、「人家の煙が国に満ちている。人民が富んでいるからと思われる」と。皇后はまた「宮の垣が崩れて修理もできず、殿舎は破れ御衣が濡れる有様で、なんで富んでいるといえるのでしょう」と。
これに対して天皇はにっこりて、こう答えた天皇はニッコリされて、こう申されました。天皇がいわれる
「よく聞け。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」「よく聞け。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」天が人君を立てるのは、人の為である。だから人民が根である。それで古の聖王は、一人でも人民に飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは自分が貧しいのと同じである。人民が富んだならば自分が富んだことになる。人民が富んでいるのに、人君が貧しいということはないのであると。
秋八月九日、大兄去来穂別皇子(後の履中天皇)のために壬生部を定められた。皇后のために葛城部を定められた。
その、諸国の人々から、「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もない。この時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります」との申し出が次々とあた。そのころ、諸国より「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もありませんもしこの時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります」
 との申し出が頻頻とあるようになりました。
九月、諸国のものが奏請し、「課役が免除されてもう三年になります。そのため宮殿はこわれ、倉は空になりました。いま人民は豊かになって、道に落ちているものもいません。つれあいに先立たれた人々もなく、家には蓄えができました。こんなときに税をお払いして、宮室を修理しなかったら、罰を被るでしょう」と申し上げた
しかし天皇は引き続きさらに三年間、税を免除した。そして六年の歳月が過ぎ、やっと税を課し、宮殿の修理をした。それでも、天皇は引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けになりませんでした。六年の歳月がすぎ、やっと税を課し、宮殿の修理をお許しになりました。けれどもまだお許しにならなかった。
十年冬十月、はじめて課役を命ぜられて宮室を造られた。人民たちは促されなくても、老を助け幼き者もつれて、材を運び土鏡を背負った。昼夜を分けず力をつくしたので、幾何も経ずに宮室は整った。それで今に至るまで聖帝とあがめられるのである。
①『日本国紀』p. 53②真木嘉裕「聖帝・仁徳天皇 民のかまどは賑いにけり」大阪新聞(1991.12)③宇治谷孟『日本書紀(上)』岩波書店, 1988.

仁徳天皇②

『日本国紀』p. 54(第5刷)日本書紀②真木嘉裕「聖帝・仁徳天皇 民のかまどは賑いにけり」大阪新聞(1991.12)
『日本書紀』には、そのエピソードの後に、民衆の姿を描いた次のような文章がある。その時の民の有様を「日本書紀」は次のように生き生きと伝えている。
「民、うながされずして材を運び簣を負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ於是、百姓之不領而扶老携幼、運材負簣、不問日夜、竭力競作(別本:争作)。是以、未經幾時而宮室悉成。「民、うながされずして材を運び簣を負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。…

フロイス日本史

①『日本国紀』pp. 143-144②ルイス・フロイス(訳:松田穀一、川崎桃太)『フロイス日本史4』中央公論社, 1981, 第32章.③ルイス・フロイス(訳:柳谷武夫)『フロイス日本史4』中央公論社, 1970, 第83章.
信長についてはこう書かれている。
極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格った
彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髭は少なくはなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。……彼は中背痩躯で、髭は少なく、声は甚だ快調で、きわめて戦を好み、武技の修行に専念し、名誉心強く、義に厳しかった。
ほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた彼はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。……彼は部下の進言に左右されることはほとんどなく、全然ないと言ってもよいくらいで、皆から極度に恐れられ、尊敬されていた。
彼は日本のすべての王侯を軽し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした彼は日本のすべての王侯を軽し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。……日本の王侯を尽く蔑し、彼らに対してまるで自分の下にいる家来たちに対するように見くだした態度で口をきき……
神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった」とある一方、「極卑賤の家来とも親しく話をした神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。……ごく卑賤の者とも親しく話をした。……神仏の祭祀や礼拝はどんなことでも軽んじ、異教の卜占や迷信的な慣習はすべて軽蔑した。……ごく卑賤な、軽蔑されていた僕とも打解けて話した

豊臣秀吉

『日本国紀』pp. 145-146ルイス・フロイス(訳:松田穀一、川崎桃太)『フロイス日本史4』中央公論社, 1981, 第32章.
彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。眼がとび出ており、支那人のように鬚が少なかった

彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。眼がとび出ており、支那人のように鬚が少なかった
彼はらの権力、領地、財産が順調に増して行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えていった彼はみずからの権力、領地、財産が順調に増して行くにつれ、おそろしく比例増殖するかのように、とてつもない速度で、悪癖と意地悪さを加えていった
関白は極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺しており、二百名以上の女を宮殿の奥深くに囲ってたが、さらに堺と京の市民と役人の娘および未亡人の全て連行し来るように命じた関白は極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺しており、二百名以上の女を宮殿の奥深くに囲ってたが、堺と京の市民と役人の娘および未亡人の全て連行し来るように命じた

織田信長・明智光秀

『日本国紀』pp. 143-144ルイス・フロイス(訳:松田穀一、川崎桃太)『フロイス日本史4』中央公論社, 1981, 第32章.
信長についてはこう書かれている。
極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格った
彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髭は少なくはなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。……
ほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた彼はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。……
彼は日本のすべての王侯を軽し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした彼は日本のすべての王侯を軽し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。……
神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった」とある一方、「極卑賤の家来とも親しく話をした神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。……ごく卑賤の者とも親しく話をした。……
ついでながら、明智光秀評も紹介しておこう。
裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷忍耐力に富んでおり、謀略の達人
彼は、裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富計略と策謀の達人であった。

徳川家茂

『日本国紀』p. 242Wikipedia(2018.11.21)
伝染病のためにフランスの蚕が絶滅の危機に瀕したのを知った家茂は、蚕を農家から集めてナポレオン3世に寄贈した。欧州における絹の産地として知られたフランスやイタリアでは、1850年代にノゼマと呼ばれる原生動物が原因とする蚕の伝染病が流行し、両国の養蚕業は壊滅状態になった。これを知った家茂は、蚕の卵を農家から集めてナポレオン3世に寄贈した。
フランスではその蚕を研究して病気の原因を突き止めることができ、同時に生き残った蚕同士を掛け合わせて品種改良に成功した。フランスではルイ・パスツールがジャン・アンリ・ファーブルの助言を元に、贈られた蚕を研究して病気の原因を突き止めるとともに、生き残った蚕同士を掛け合わせて品種改良を行った。
ナポレオン3世は謝礼として慶応3年(1867)、幕府に対し軍馬の品種改良のためのアラビア馬26頭を贈呈した。ナポレオン3世は謝礼として慶応3年(1867年)、幕府に対し軍馬の品種改良のためのアラビア馬26頭を贈呈した。

岩倉使節団

『日本国紀』p. 289Wikipedia(2018.11.17)
使節団のメンバーのほとんどは断髪・洋装だったが、日本の文化に誇りを持っていた岩倉だけは髷と和服という姿だった。しかしアメリカ留学中の息「未開の国と馬鹿にされる」と言われ、シカゴで断髪して洋装に改めている使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉は髷と和服という姿で渡航した。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。日本の文化に対して誇りを持っていたためだが、アメリカに留学していたの岩倉具定らに「未開の国と侮りを受ける」と説得され、シカゴで断髪。以後は洋装に改め

朝鮮出兵

『日本国紀』p. 158Wikipedia(2009年8月3日更新
『明史』…には「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来七年、明は十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を浪費するも、明と朝鮮に勝算はく、ただ秀吉が死去するに至り乱禍は終息した書かれている。この戦争について『明史』は「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(属国(朝鮮に勝算はく、ただ関白(豊臣秀吉が死去するに至り乱禍は終息した。」総評する。

柴五郎

『日本国紀』pp. 311-312
Wikipdeia(2018.11.17)

①凶暴な暴徒が各国大使館を取り囲む中、……柴は……他国軍と協力して……この前に柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くしており、さらには間者(スパイ)を駆使した情報網を築き、篭城の実質的司令官として活躍した。

暴徒が各国の大使館を取り囲み、日本公使館書記生の杉山彬やドイツ公使ケットレルが殺害される。柴は公使・西徳二郎の下で居留民保護にあたり、また他国軍と協力して60日に及ぶ篭城戦を戦い、その功を称えられる。……柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くしさらには間者を駆使した情報網を築き上げていたことから、各国篭城部隊の実質的司令官であった。
②「義和団の乱」の後、ロンドン・タイムス社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記したが、その功績は柴によるところが大きい。ロンドン・タイムスはその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。なお、柴自身はアメリカ軍人が最も勇敢だったと評している。
柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。②事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。

イザベラ・バード

『日本国紀』pp. 279-280時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行(上)』金坂清則訳 『日本奥地紀行』巻1
イザベラ・バードは「日本ほど女性が一人で旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はない」と旅行記に記している。日本ほど女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う。(p. 484)今私は、世界中で日本ほど女性が危険にも無礼な目にもあわず安全に旅のできる国はないと信じるものである。(p. 130)
世界中を旅してきた彼女にとっては、「ただの一度として無作法な扱いを受けたことも、法外な値段をふっかけられたこともない」経験は稀有なことだった。でもここではただの一度として無作法な扱いを受けたことも、法外な値段をふっかけられたこともないのです(p. 228)ところが、〔日本では〕そんな失礼な目にあったこともなければ、過剰な料金をとられたこともこれまでまったくなかった(p. 228)
馬子は「旅の終わりにはもかも無事な状態で引き渡すのが分の責任だから」と言って一銭も受け取らなかった。わたしが渡したかった何銭かを、旅の終わりにはなにもかも無事な状態で引き渡すのが自分の責任だからと、受け取ろうとはしませんでした。(p. 229)しかも、私が〔お礼に〕渡そうとした数銭には、この男〔の馬子〕は、「わしには旅の終わりにすべての物をきちんと引き渡す責任があるんでさ」と言って、受け取ろうとはしなかった。(p. 228)
これに似た経験を何度もしたバードは、「彼らは丁重で、親切で、勤勉で、大悪事とは無縁です」と書いている。彼らは丁重で、親切で、勤勉で、大悪事とは無縁です。(p. 237)彼らは礼儀正しいし心優しいし勤勉だし、重罪とは無縁ではある。(p. 236)

琉球

『日本国紀』p. 132Wikipedia(2018.11.17沖縄タイムス(2014年9月17日)
遺伝子研究でも、現在の沖縄県民遺伝子中国人や台湾人とはとても遠く、九州以北の本土住民に近という結果複数出ている遺伝子研究では、沖縄県民遺伝子的に中国人や台湾人とはとても遠く、九州以北の本土住民と近く、同じ祖先を持つという研究結果複数出ている。琉球列島の人々の遺伝情報を広範に分析した結果、台湾や大陸の集団とは直接の遺伝的つながりはなく、日本本土に由来すると発表した。

日の丸

『日本国紀』p. 257Wikipedia(2018.11.17)
日輪のマークは天下統一の象徴であり、源平合戦の折も、平氏は「赤地金丸」、源氏は「白地赤丸」を使用した。それ以降、「白地赤丸」の日の丸が天下統一を成し遂げた者の象徴として受け継がれていったとわれている。日輪は天下統一の象徴であり、平氏は御旗にちなんで「赤地金丸」、源氏は「白地赤丸」を使用した。平氏が滅亡し、源氏によって武家政権ができると代々の将軍は源氏の末裔を名乗り、「白地赤丸」の日の丸が天下統一を成し遂げた者の象徴として受け継がれていったと言われる。
江戸時代には「白地赤丸」は意匠のつとして普及し様々な場所で用いられ、幕府は公用旗として使っていた。家康ゆかりの熱海の湯を江戸城運ばせる際には、その旗を立てている。「熱海よいとこ日の丸立てて御本丸へとお湯が行く」という唄生まれている江戸時代には「白地に赤丸」は意匠のひとつとして普及していた。江戸時代の絵巻物などにはしばしば白地に赤丸の扇が見られるようになっており、特に狩野派なども赤い丸で「旭日」の表現を多用するようになり、江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されるに到っていた。徳川幕府は公用旗として使用し、家康ゆかりの熱海の湯を江戸城まで運ばせる際に日の丸を立てて運ぶなどした。そこから「熱海よいとこ日の丸たてて御本丸へとお湯が行く」という唄生まれたりした。

荻原重秀

『日本国紀』p. 184Wikipedia(2018.11.23)
重秀は、この時、自身の決意のほどを「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」という言葉で表している。このときの重秀決意を表した「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」という有名な言葉を伝えている。
つまり重秀は、政府に信用がある限りその政府が発行する通貨は保証される、したがって通貨が価値がある金や銀などである必要はない(瓦礫でも代用できる)」という現代に通じる国定信用貨幣論打ち立てたのである……財政を圧迫することなくデフレを回避し、……重秀は、政府に信用がある限りその政府が発行する通貨は保証されることが期待できる、したがってその通貨がそれ自体に価値がある金や銀などである必要はないという国定信用貨幣論を200年余りも先取りした財政観念を持っていた……幕府の財政をこれ以上圧迫することなくデフレを回避できる。

古市公威

『日本国紀』p. 330Wikipedia(2017.9.2)
帝国大学工科大学初代学長の古市公威、内務省土木局のトップとして全国の河川治水、港湾の修築を行ない、近代日本土木行政の骨格を作った人物であるが明治八年(一八七五)にフランスに留学した時の烈な努力は有名である。彼のあまりの猛勉強ぶりを見て、このままではを壊してしまうと心配した下宿先の女主人が、少しは休むようにと言うと、古市は「自分が一日休むと、日本が一日遅れます」と答えた古市は内務省土木局のトップとして全国の河川治水、港湾の修築のみならず、日本近代土木行政の骨格を作るとともに、……司馬遼太郎は自著『国家・宗教・日本人』において、フランスに留学中、あまりの猛勉強ぶり体を壊しはしないかと心配した下宿先の女主人が休むように勧めると、古市は「自分が一日休むと、日本が一日遅れます」と答えたというエピソードを井上ひさしとの対談の中で語っている。

中独合作

『日本国紀』p. 364Wikipedia(2018.11.25)
ハンス・フォン・ゼークトは蒋介石に「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」と進言し、「今最も中国がやるべきは、中国軍兵に対して、日本への敵愾心を養うことだ」とも提案した。これをけて蒋介石は、対日敵視政策をとるようになる。ゼークトは「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」とも蒋介石に進言し、「いまもっとも中国がやるべきは、中国軍兵に対して、日本への敵愾心を養うことだ」とも提案した。これをけて蒋介石は、秘密警察組織である藍衣社による対日敵視政策をとるようになる。

ヴァリニャーノ書簡

『日本国紀』p. 148Yahoo!知恵袋『武器・十字架と戦国日本 イエズス会宣教師と「対日武力征服計画」の真相』(洋泉社, 2012, pp. 227-228)
日本人の好戦性、軍勢、城郭、狡猾さと、ヨーロッパ各国の軍事費を比較して、日本征服することは不可能である日本人の好戦性・軍勢・
城郭・狡猾さと欧州各国の軍事費をふまえて、日本征服できない
❶「日本は外国人の兵士の手で征服され得ない」
❷「日本はこの世でもっとも堅固で険しい地で、日本人はもっとも好戦的だからである」
❸「難攻不落の要塞が、高く非常に険しい山中にある。日本人は極めて大勢であり、海に囲まれた島々にもいるため、彼らに対抗できる強国も兵士も存在しない」
❹「日本人の間には反逆と裏切り〔が日常的なので、外国人が支配者となっても〕「裏切りが行われるであろう」
❺「日本人を養い、日本国内に数多くの要塞、戦闘要員を大勢抱えるには、ポルトガルとスペインの両国王は、この上なく巨額の出費を余儀なくされよう。(中略)ヨーロッパから遠く隔たっている地で、大勢の日本人と巨額の経費を維持するには、両国の所有する全収入と人々では不十分であろう」

 カッテンディーケ

『日本国紀』p. 255Wikipedia水田信利訳
…ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ簡単な図面を頼りに蒸気機関を完成させた人物には非凡な才能があると驚かせている。ホイセン・ファン・カッテンディーケ、簡単な図面を頼りに蒸気機関を完成させた人物には非凡な才能があると驚いいる。「何としても一度も実際に蒸気機関を見たこともなくして、ただ簡単な図面をたより、この種の機関を造った才能非凡さに、かざるを得ない」

鍋島直正

『日本国紀』p. 252Wikipedia
文政一三年(一八三〇)、十五歳の若さで藩主となった直正は、まず破綻していた財政を立て直すため、役人を五分の一に削減し、磁器・茶・石炭などの産業振興に力を注ぎ、農民には小作料の支払い免除し、農村復興させた。さらに藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成出自にかかわらず有能なを積極的に登用した。これを皮切りに、役人を5分の1に削減するなどで歳出を減らし、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、磁器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。また藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革、小作料の支払免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。役人削減とともに藩政機構を改革し、出自に関わらず有能な家臣たちを積極的に政務の中枢へ登用した。

紫式部

『日本国紀』p. 71Wikipedia
下級貴族出身の紫式部は二十代で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、三年後夫と死別し、その悲しみを忘れるためにこの物語を書き始めた。下級貴族出身の紫式部は20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。これが『源氏物語』の始まりである。

対華二十一カ条要求

日本国紀』p. 344(第5刷)Wikipedia
また孫文「二十一ヶ条要求は、袁世凱自身によって起草され、要求された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である」と言っている孫文は、「21ヶ条要求は、袁世凱自身によって起草され、要求された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である」した

第一次歴史教科書問題

『日本国紀』pp. 481-482Wikipedia
これは六月二十六日付朝刊各紙報じた記事がきっかけとなった。具体的には、昭和前期の部分で「日本軍が華北に『侵略』」とされていた記述が、文部省(現在の文部科学省)の検定によって「華北へ『進出』」という表現に書き改めさせられたというものだったが各新聞の1982年(昭和57年)6月26日付朝刊が、日本国内の教科用図書検定において、昭和時代前期の日本の記述について「日本軍が華北に『侵略』」とあったのが、文部省(現在の文部科学省)の検定「華北へ『進出』」という表現に書き改めさせられた報道され日本と中国、韓国との間で外交問題に発展した。これは第一次教科書問題といわれる。
当初はさほど大きな問題とはされていなかった。ところが、七月二十日頃になって再浮上し、以降、マスメティアで「歴史教科書改」キャンペーンが展開されるようになる。
七月二十六日には、中国政府から日本政府に正式に抗議が行なわれ、……。
当初は大きな問題として扱われていたわけではないが、7月20日前後から「歴史教科書改ざん」キャンペーンが展開され7月26日に中国政府から日本政府に正式に抗議が行われた。
この時初めて、日本の歴史教科書の記述内容が、中国・韓国との間で外交問題に発展した第一次教科書問題しかし当時の文部大臣小川平二はこれに際し、「外交問題といっても、(教科書については)内政問題である」という真っ当な発言をし、国土庁長官松野幸泰「韓国の歴史教科書にも誤りがある」「韓国併合でも、韓国は日本が侵略したことになっているようだが、韓国の当時の国内情勢などもあり、どちらが正しいかわからない」などの正論を述べたが日本のマスメディアからは大きなバッシングを受け、韓国の大きな反発を呼び込むこととなるこの問題に関連して、小川平二文部大臣「外交問題といっても、内政問題である」などの発言をし、松野幸泰国土庁長官「韓国の歴史教科書にも誤りがある」「日韓併合でも、韓国は日本が侵略したことになっているようだが、韓国の当時の国内情勢などもあり、どちらが正しいかわからない」と発言をしたことから、韓国からも強い反発も招き、韓国の『東亜日報』は21日のトップ記事で侵略美化を憂慮する報道をした
八月二十六日、事態収拾するため、官房長官宮沢喜一「『歴史教科書』に関する宮沢内閣官房長官談話」発表するが、中国韓国はさらに反発し、結局、翌日、小川文相国会の文教委員会で、「隣接諸国との友好親善に配慮すべき」との一項目を教科用図書検定基準に加えると表明することとなる。この問題解決するため8月26日『「歴史教科書」に関する宮澤喜一内閣官房長官談話』発表されたが、中国は「宮沢官房長官談話には満足しうる明確かつ具体的是正措置がなく、中国政府はこれに同意できない。」と回答、同日、小川文相国会の教科用図書検定調査審議会への諮問に「隣接諸国との友好親善に配慮すべき」との一項目を加える表明したことで、……韓国政府も「日本政府の 努力を多とする」と回答して、外交的には束した。
外交上、他人に配慮して事をめたかに見えたが、これをきっかけに、今日まで続く文部科学省教科用図書検定基準の中に「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という近隣諸国条項が追加され、歴史教科書に韓国に配慮した記述が増えていく。……文部科学省においては、教科用図書検定基準の中に「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。」という近隣諸国条項の追加が談話と連動して行われ、文部省内は中国と韓国に関する教科書会社の記述は全て認め訂正は無しにせざるを得ないという雰囲気に陥った。……
ところで、この問題のきっかけとなった前述の報道は、文部省記者クラブ内の一人の記者勘違い(意図的にやった可能性もある)から始まった誤報で、検定での書き換えの事実はなかった。なお、この問題のきっかけとなった報道は誤報であり、その原因は文部省記者クラブの合同取材に拠るもので、一人の記者勘違いした内容を取材に参加していた各メディアが一斉に報道したためであるという主張もある。

農地改革

『日本国紀』p. 438Wikipedia
……農地が細分化されたことによって効率が悪くなり、また兼業農家が多くを占め、中核的農家が育たなかった。戦後、日本の食料自給率先進国の中で最低水準なった原因の一つが農地改革だとする考え方もある。…………兼業農家が多くを占めるようになり先進的な農業の担い手となり得る中核的農家が育たなかった。戦後の食料自給率は大幅に低下し先進国の中で最低水準なっている。……
また(地主が分散したことで)都市開発や道路建設等の用地買収交渉困難となり、経済の停滞につながった。農地改革で大地主が減り、面積あたりの土地の所有者が増えたことで、都市開発や道路建設等の用地買収交渉困難化や長期化を招き、経済の停滞につながった。

プラモート氏発言

『日本国紀』p. 447『大東亜戦争を見直そう』p. 61
「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意された日である。我々はこの日を忘れてはならない」(現地の新聞サイアム・ラット紙、昭和三〇年十二月八日)「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。れは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決心された日である。我々はこの日を忘れてはならない」

大津浜事件・宝島事件・異国船打払令

『日本国紀』pp. 216-217 Wikipedia
文政七年(一八二四)、大津浜事件」が起きた。これはイギリスの捕鯨船の乗組員十二人が水戸藩の大津浜(現在の茨城県北茨城市大津町)に上陸した事件である。 十八世紀にはヨーロッパの船は日本近海で捕鯨を行なっており、事件の少し前から水戸藩の近海でも、異国の捕鯨が頻繁に見られるようになっていた。この時、大津浜に上陸したイギリス人たちは、壊血病の患者が出たので、新鮮な野菜求めてやってきたのだった。水戸藩士たちが彼らを捕らえたが、事情を聞いた幕府役人は、水と野菜を与えて釈放した。……

大津浜事件(おおつはまじけん)は、文政7年(1824年)5月28日に水戸藩の大津(北茨城市大津町)浜にイギリス12人が上陸し、水戸藩が尋問した後彼らを船に帰した事件。……
19世紀初めごろから、産業革命のため欧米の国々による日本近海で捕鯨が盛んになった。水戸周辺での異国船の出没は次第に増えていき、文政6年(1823年)の頃には頻繁になっていた。……12人の英国人が水戸の浜に上陸し、付家老 中山備前守の役人に捕らえられた。尋問の後、内に壊血病者がいるために新鮮な野菜補給するために上陸したことがわかり、これらを与えて船員を船に帰した。(Wikipedia

しかし水戸藩では、この幕府の対応を手ぬるいと非難する声が上がった。これが後の水戸藩での攘夷運動につながったといわれている。薩摩沖の宝島(奄美大島と屋久島の間に位置する島)にイギリスの捕鯨船の乗組員が上陸し牛を強奪しようとして、島民との間で交戦状態となる事件きた 藤田幽谷門下の学者はこの対応を非難し、後の攘夷運動につながっていく。
同年には薩摩沖の宝島イギリスの捕鯨船員上陸し牛を強奪しようとしたために島民との間で交戦状態となる宝島事件こっているWikipedia
この時、上陸したイギリス人(二十~三十人といわれる)は島民に牛を要求するが、島にいた薩摩藩の役人に拒否されたため、牛三頭を強引に奪った。そこで薩摩藩士がイギリス人一人を鉄砲で射殺した。 文政7年(1824年)8月、イギリス船(捕鯨船)が来島し、島民に牛を譲渡するように要求したが、在番及び郡司が拒否したため、20名から30名程度のイギリス人が島に上陸し牛3頭を略奪した。この事件で横目の吉村九助が在番所でイギリス人1名を射殺、……(Wikipedia
この二つの事件がきっかけとなり、文政八年(一八二五、幕府はそれまでの「薪水給与令」を廃し、「異国船打払令」を出す。この事件の翌年の1825、幕府はオランダ以外の西欧の国の船を発見と同時に攻撃すべきという異国船打払令を発した。(Wikipedia
これは日本沿岸に接近する外国船は、見つけ次第砲撃し、また上陸する外国人は逮捕するという強硬なるものだった。

日本沿岸に接近する外国船は、見つけ次第に砲撃し、追い返した。また上陸外国人については逮捕を命じている。(Wikipedia

小栗忠順

『日本国紀』pp. 258-259Wikipedia
その代表的な一人が小栗忠順である。二十代で異国船に対処する詰警備役となった小栗は、蒸気船を見て、日本は積極的外国と通商をすべきだと強く主張した。その後、目付となり、遣米使節団の一員としてアメリカにった時、日本も近代的な造船所を作らねばならないと決意した。……その後、来航する異国船に対処する詰警備役となるが、戦国時代からの関船しか所持していない状態ではアメリカと同等の交渉はできず、開国の要求を受け入れることしかできなかった。この頃から外国と積極的通商主張し造船所を作るという発想を持ったと言われる。
安政7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するポーハタン号で米する。……
アメリカからの帰国後、文久元年(一八六一)、ロシア軍艦による対馬占領事件処理に当たった小栗(外国奉行になっていた)は、幕府に対し、「国際世論に訴えかけ、場合によってはイギリス海軍と手を結ぶ」ことを提言するが、受け入れられず外国奉行を辞任する

文久元年(1861年)、ロシア軍艦対馬占領事件が発生。事件の処理に当たるが、同時に幕府の対処に限界を感じ、江戸に戻って老中
・対馬を直轄領とすること。
・今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと。
国際世論に訴え、場合によっては英国海軍の協力を得ること。
などを提言したが、れられず外国奉行を辞任した

年、三十五歳で勘定奉行になった小栗は、幕府財政の立て直しに取り組む。同時にフランスの助力を得て、製鉄所建設を計画する。幕閣から対されたが、将軍家茂承認を得て、慶応元年(一八六五)横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設開始する。

文久2(1862年)、勘定奉行に就任し、名乗りを小栗豊後守から上野介に変更する。幕府の財政立て直しを指揮する。……フランス中心の招聘となった。
文久3年(1863年)、製鉄所建設案を幕府に提出、幕閣などから反発を受けたが、14代将軍徳川家茂はこれを承認し、……。
慶応元年(186511月15日、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設開始。……

これは単なる製鉄所ではなく、造船所とドック(船の建造や修理のための施設)が一体となるものとして計画された。

小栗は完成した製鉄所の長としてフランスを任命し、同時に雇用規則、社内教育洋式簿記月給制など、当時の日本では画期的なシステムを導入した。その中には残業手当の規約まであった。小栗は横須賀製鉄所の長としてフランスのレオンス・ヴェルニーを任命した。これは幕府公認の事業では初の事例だったが、この人事により職務分掌・雇用規則残業手当・社内教育洋式簿記月給制など、経営学や人事労務管理の基礎が日本に導入された。また、製鉄所の建設をきっかけに日本初のフランス語学校横浜仏蘭西語伝習所を設立。この学校の卒業生には明治政府に貢献した人物多い。
日本の商人が海外貿易で外国と対等に渡り合えない原因は資本力の弱さにあると見た小栗は、江戸と京都と大坂の商人から資本を集めて、株式会社の「商社」を設立した(Companyを商社と訳したのは小栗といわれている)。株式会社「兵庫商社」の設立案を提出、大阪の有力商人から100万両という資金出資を受け設立した)(一説には、英語の「company」を「商社」と訳したのは小栗とされる
また陸軍増強ために、フランスから最新式の大砲や小銃を大量購入し、フランス軍事顧問団訓練た。同時に、小銃大砲弾薬国産化を推進め、ベルギーより弾薬用火薬製造機械を購入し、日本初の西洋式火薬工場を建設した。小栗は陸軍の力も増強するため小銃大砲弾薬等の兵器・装備品の国産化を推進した。……また、ベルギーから弾薬火薬製造機械を購入し、滝野川反射炉の一角に設置、日本初の西洋式火薬工場を建設した。小栗は更なる軍事力強化のため、幕府陸軍をフランス軍に指導させることを計画する。慶応2年12月8日(1867年1月12日)、フランス軍事顧問団が到着、翌日から訓練が開始た。
彼は文化面でも大きな功績を残している。日本初の本格的ホテル築地ホテル館」を建設し、これも日本初のフランス語学校横浜仏蘭西語伝習所を設立した。同校の卒業生明治政府に貢献した者多い。8月9日、日本初の本格的ホテル築地ホテル館建設が始まる。……
小栗はこれらをわずか数年でやってのけた。その先進性とバイタリティーには驚嘆するほかはない。彼は幕藩体制を改め、中央集権体制へ移行するとも考えており、徴兵制も視野に入れていた。
明治の新政府で活躍した大隈重信は「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語っているし、後に日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を打ち破った東郷平八郎は「日本海海戦に勝利できたのは、製鉄所、造船所を建設した小栗殿のお陰である」と遺族に語ったと伝えられている。大隈重信は小栗について「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語った。……東郷平八郎は自宅に小栗貞雄と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べた後、仁義禮智信としたためた書を又一に贈っている。

関孝和

『日本国紀』pp. 182-183Wikipedia
独力で代数の計算法を発明し世界で最も早行列式の概念を提案したまた「エイトケン加速法」という計算法を用いて円周率小数点第十六位まで正確に求めている。エイトケン加速法がヨーロッパで再発見されたのは一八七六年であるから…… 代数の計算法を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎を作った。世界で最も早い時期に行列式・終結式の概念を提案したことはよく知られる。

また暦の作成にあたって円周率の近似値が必要になったため、1681年頃に正131072角形を使って小数第11位まで算出した。関が最終的に採用した近似値は「3.14159265359微弱」だったが、エイトケンのΔ2乗加速法を用いた途中計算では小数点以下第16位まで正確に求めている。これは世界的に見ても、数値的加速法の最も早い適用例の一つである(西洋エイトケンのΔ2乗加速法が再発見されたのは1876年、……

ブルーノ・ビッター

万延元年遣米使節

江戸の火事

長岡京

ジョン万次郎②

楠木正成

徳川家重

徳川綱吉

徳川家綱

わび・さび

南京事件

北条早雲




22 件のコメント

  • 何故巻末に参考文献リストを載せなかったのでしょう?
    同書のpp.445-447の記述では引用元を明記しているので、やろうと思えばできたんじゃないかと。
    つまみ食いが多すぎて把握しきれなくなったんでしょうか?

    • 多分そうだと思います。Wikipediaやらいろんなところから継ぎ接ぎしたので引用元は制作サイドも解っていないと思います。
      だから刊行後に「参考文献リスト」の件であれだけ過剰反応したのだと思いますよ。

  • もし本当に引用があったとすればきちんとソースを示すべきだし、誠実な対応を期待したいですね。
    ただ百田氏サイドの主張にも一理あるのでコピペの定義をはっきりさせるべきでしょう。

  • 歴史的事実は被ることがあると開き直るなら、ここで指摘された空襲を受けた都市に札幌が削除された事実はどう説明するのだろうか。こんなことも分からないで一方的にこのサイトを糾弾する書き手および糾弾者の耄碌っぷりが心から心配でならない。

  • 百田氏はろだんが意図的に切り取った私のツイートには、一切何の反応もしていない。にもかかわらず、いかにも氏が私のツイートに賛同したかのような悪質印象操作をしている。まさに切り取り捏造。
    さっさと消去しなさい!!

    しかしいったいその無駄なエネルギーはどこから出てくるんだね?

    • @YUKI_NKさんへ
      あなたのつぶやきが、百田氏からRTされこそすれ具体的に賞賛されないのは、支持者にあり勝ちで凡庸な論理に過ぎないからです。
      「RTして置けば、気休めにも馴れ合いにも示威行為にもなる」程度のあしらいに留まっている訳です。
      百田氏(のゴーストライター)が、通常の歴史書やWikipedia同様に逐一出典を示していれば、ろだん氏他の同志ご一同も、意欲をそそられエネルギーを注ぎ込む事はなかったでしょう…

  • これら以外に無断転載があるとしたら右派論壇誌からでしょうか。
    江藤淳やケント・ギルバート氏の名前を『日本国紀』にクレジットしないというのは、無礼もいいところ。

  • こんにちは、武田邦彦氏が何やら損害賠償的な恫喝を行っているようですね。
    裁判になったらろだんさんを応援申し上げます。法廷でキッチリ白黒つけましょう。
    幻冬舎は「殉愛」名誉毀損敗訴など訴訟案件の多い出版社として定着しますね。

  • 無断転載の件は内実知りませんので、訴えられたらぜひ法廷で。私も興味あります。
    ただ、どうも大変失礼ながら、ここの論壇ネットさんの記事は間違いが多いような。

    信じる人がいそうなので一応。

    ベストセラーなんて出版社が簡単に作れませんよ。そんな夢みたいな話はありません。
    組織買いもあります。良い悪いかは別にして、よくあります。でもそれでもベストセラーにはなりません。中身が伴わないと、60万部もいかないのです。残念ながら。

    もしつくれるなら、出版不況なんてあるわけない。今の出版社はかなりシビアです。今は本当に生きるか死ぬかで大変です。誰かひとりに肩入れするなんてありません。少なくとも大手の出版社はありません。

    予約が多かったり、売れると見込めるから、出版社は宣伝するんです。今の時代、増刷が確実に見込める作者なんてほんの一握りです。

    世間で右寄りと言われてる人が売れているのは、時代なんでしょうね。まあそのうち、逆転することもあるでしょう。

  • 無理せず、永くガンバって!
    おお、リアルゾンビ!のような人
    まだ新しく出ると思いますよ。
    息切れしないように^_^

  • 数年に歴史教科書のコピペを訴えた裁判があり、その際の判決ですが、

    知財高裁曰く――《歴史教科書の著作権は、一般歴史書と比較しても創作性のある場合に初めて認められる。したがって、国史大辞典等に既に書かれている歴史事実などを分かりやすくありふれた文章で記述したとしても、その教科書には著作権は認められない。》

    ちなみに著作権が認められないとされたのは以下のような記述です。

    ○『新しい歴史教科書』(平成十七年版、扶桑社)
      すでに日本列島には、縄文時代に大陸からイネがもたらされ、畑や自然の水たまりを用いて小規模な栽培が行われていたが、紀元前4世紀ごろまでには、灌漑用の水路をともなう水田を用いた稲作の技術が九州北部に伝わった。稲作は西日本一帯にもゆっくりと広がり、海づたいに東北地方にまで達した。 (24頁)

    ○『新しい日本の歴史』(平成二十三年版、育鵬社)
      わが国には、すでに縄文時代末期に大陸からイネがもたらされ、畑や自然の湿地で栽培が行われていました。その後、紀元前4世紀ごろまでに、灌漑用の水路をともなう水田での稲作が、大陸や朝鮮半島から九州北部にもたらされると、稲作はしだいに広がり、東北地方にまで達しました。  (24頁)

    https://s.webry.info/sp/tamatsunemi.at.webry.info/201612/article_1.html

  • 朝日新聞、写真集から盗用 北海道面連載を取り消し
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190131-00000120-kyodonews-soci
    ”朝日新聞社は31日、今年1月に北海道版朝刊地域面に掲載した連載記事「ひと模様 大道芸人 ギリヤーク尼ケ崎さん」について、北海道新聞社が2016年に出版した写真集から引き写した部分が多数あり、「事実上の盗用」と判断、連載を中止し、記事を取り消したと発表した。”
    というのが共同通信の記事にありました。

    • 2019/1/25(金)武田邦彦×石平×居島一平【虎ノ門ニュース】を是非ご覧ください。
      いかにあなたが頓珍漢な指摘をしてるか分かりますので・・・。
      思想、感情を伴った創作物と歴史的事実は全く扱いが異なるのです。

  • 論壇ネットが武田先生に完全論破されててワロタw

    ttps://www.youtube.com/watch?v=DAJtpiCGomo&t=2s

    1時間34分頃からのコーナーなので興味のある方は是非ご覧ください。

  • 今のところの親日本国紀と反日本国紀の議論をまとめると

    [共通認識]
    ・日本国紀はwikipedia等から参考文献なしに転載した箇所が多くある
    ・日本国紀は版を重ねる毎にコピペを指摘された箇所を修正しているが、改訂履歴や改訂理由等は記載していない
    ・歴史的事実に著作権はない

    [親日本国紀]
    ・日本国紀が引用した箇所は歴史的事実のみであり、何かを表現したものではないため、著作権侵害には当たらない
    ・著作権侵害は親告罪であり、著作物の保有者から指摘を受けない限り犯罪ではない
    ・Wikipediaから転載することは何ら問題ない
    ・日本国紀に書かれていることは全て歴史的事実である。

    [反日本国紀]
    ・日本国紀には歴史的事実のほか、当時の情景を想像によって記載した箇所など著作物にあたるものの転載が確認されており、明確な著作権侵害である。
    ・見つからなければ犯罪じゃないという主張は法治国家の意義を根幹から揺るがすものである。
    ・大学の論文の多くががWikipediaの転載を認めていないとおり、Wikipediaから転載することは恥ずべき行為である。
    ・日本国紀には事実と異なる箇所が多々ある。

  • 無断転載部が赤文字になっていて分かりやすかったです。
    でも、句読点にも付けるのはやりすぎじゃないですかね…?

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